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■時代と流行|和風建築とエキゾチズム 伝統からキッチュまで

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和風と西洋、そして近代和風

新しい時代、様式の幕開け

 明治期の日本では、西洋に追いつくことを至上命題として、それまでの伝統をかなぐり捨て西洋化を推進するという流れが顕著となっていた。そのような背景の中で西洋式建築物が次々と造られていった。

 広大な武家屋敷は取り壊されて、西洋式の洋館が建てられていた。都市計画も西洋を模範としたのは言うまでもなかった。そして、いつしか江戸の町並みはすっかり様変わりし、日本は急激に西洋化という近代化をしていた。

 明治期には、西洋化と付随して「和魂洋才」とか、「和洋折衷」という考え方もあった。それは単なる西洋化ではなく、日本の伝統的な(和風)精神性を取り入れるという、ある意味ではプライドに基づいたものだが、その実態は西洋化の波に押されて、いつしか伝統は隅に追いやられていた。

 そのような中で、時代の波に逆らうように伝統を基本に、新しい日本的な建物が造られていた。それが「近代和風」といわれる建築群であった。そこでは、西洋の技術を取り入れた和洋折衷や混淆の様式が多く採用されていた。

 要するに、和風+西洋=近代和風ということができる。

 外観は伝統的な和風だが、構造は西洋式建築という具合である。具体的にはコンクリートが多く使われていた。それは日本的な精神性と、西洋の合理性が融合したものだった。そこがいわば、近代和風といわれる所以である。

 それらの建築群は、見た目は和風ながら、どこか異国情緒を漂わす(過剰なゆえに)という不思議な趣を醸し出して、日本古来の伝統とはどこか違っていた。

和風とは、明治期に生まれた!
 ところで、「和風とはなんだ」という疑問があるはずだ。この和風という呼称は、江戸時代にはなかった。西洋文化が入り込んだ明治期以降に、相対的な位置づけとして「和風」という呼称が生まれたといわれる。

和風とは
 端的にいえば、和風=日本風、あるいは「日本の伝統的」と解釈できる。
近代和風建築とは…
 西洋の文化=技術、素材などを取り入れた、和風の建築を意味する。

近代和風建築の誕生


旧奈良県庁舎
引用:1965-3-22奈良県庁旧庁舎.jpg

伝統への意識の高まり

 古式豊かな日本の伝統が息づく古都「奈良」に近代和風は生まれた。

 明治元年(1868)、明治政府は神道の国教化政策を行うため、神社から仏教的な要素を排除する「神仏分離令」を発布しました。

 これをきっかけに、全国各地で「廃仏毀釈運動」がおこり、各地の寺院や仏具の破壊が行なわれた。僧侶は還俗(僧籍に入った者が、再び俗人に戻ること)し、僧のいなくなった寺は荒れ放題となり、やがて売りに出される始末となった。

 古来から寺院の多かった奈良では、「廃仏毀釈運動」の影響を強く受けていた。

 この「廃仏毀釈運動」が、静まるのに約十数年かかったといわれる。明治20年、奈良は県として再配置された。これをきっかけに、奈良では古寺の復興、各伝統的な行事などの復興を目指して動き始めていた。

 いわば奈良では、独自の存在意義として伝統を復興しようとした。当時の公共建築では、おしなべて西洋式建築とするのが多かったが、奈良ではそれに反対する意見が多くなっていた。西洋式では古都奈良の存在意義に沿わないからだった。

 明治27年、奈良公園の中に「帝国奈良博物館(現・奈良国立博物館)」という華麗壮大な西洋式建築が建てられた。しかし、世間では古都奈良に相応しくない、さらには擬似西洋風と嘲笑う声が多かったといわれる。

 そのような風潮を背景に考えられたのが、西洋の技術を取り入れた和風建築というものだった。それが「近代和風建築」の始まりといわれている。

 西洋様式の帝国奈良博物館の不評と、伝統に対する意識の高まりを受けて、外部と内部の構造を西洋式、そして外形を日本式(和風)とした最初の和風建築(明治維新以降)といわれる「奈良県庁舎」が、明治28年に奈良公園の中に建てられた。

 この奈良県庁舎は、伝統と西洋式建築技術を融合した和風の新しい様式として、以後の和風建築に大きな影響を与えることになった。

 その後、奈良には歴史性を意識した「奈良県物産陳列所」「奈良県戦捷記念図書館」「奈良ホテル」などの新しい和風様式の建物が造られていった。

 ちなみに奈良県庁舎は昭和40年に解体・移築されて、天理教いちれつ会館となったそうである。なお現存してるかどうか、残念ながら不明である。


旧奈良県庁舎
引用:旧奈良県庁s40 1965-3-22木村氏.jpg


旧奈良県立戦捷記念図書館
引用:http://blog-imgs-10.fc2.com/j/y/u/jyube/DSC05859.jpg


旧奈良県物産陳列所
引用:http://bunkaisan.exblog.jp/16960158/

和風建築とエキゾチズム

異国情緒が漂うリゾートホテル

 鎖国の江戸時代から開国の明治時代となり、日本には多くの外国人が訪れるようになっていた。そのなかで外国人専用のリゾートホテルが求められていた。

 そのような背景を踏まえて、日本各地に外国人の目から見た日本(和風)というエキゾチック(異国情緒)を意識した建物が造られていった。

 それらは現代人の目から見ればキッチュとしか思えないが、外国人には異国情緒が溢れる魅惑の様式美として郷愁を刺激していた。

富士屋ホテル


引用:富士屋ホテル(本館)ウィキメディア・コモンズより
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Fujiya-Hotel-main-bldg-1.jpg

 富士屋ホテルは、明治11年に外国人専用ホテルとして箱根宮の下で創業した。

 最初の建物は火災で焼失し、その後再建しさらに増築を重ねて、和洋混淆の独特な景観を持つ特異なホテルとなって現在に至っている。

 例えば本館では、構造的には木造の壮大な洋館を思わせる造りでありながら、随所に和風の意匠を施して、不思議な雰囲気を醸し出している。端的にいえば、洋風の館に、和風の屋根を載せて極端なコントラストを生み出している。

 屋根には、まるで寺院のような千鳥和風付きの大入母屋が載り、大棟と降り棟には大きな鬼瓦が威容さを誇っている、という具合である。

 富士屋ホテルの和風建築は、明らかに外国人の目を意識して造られたものだった。そして、洋館の基本構造に「趣を異にする和風造作」が丁寧に施された。その結果として、特異なエキゾチックが漂う日本風が生まれたといえる。

 日本人にはどこか変に見える、過剰、かつ露骨な和風の意匠使いは、外国人にはとても理解しやすかったに違いない。

 当然のように、建物全体が持つ様式は日本古来の伝統そのものではない。これもまた近代和風建築ならではの特徴のひとつといえるだろう。


引用:富士屋ホテル(花御殿)ウィキメディア・コモンズより
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:FlowerPalaceOfFujiyaHotel-1.jpg

富士屋ホテル
http://www.fujiyahotel.jp/

日光金谷ホテル


正面が和風の別館、左が洋風の本館
引用:http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/026/031/55/N000/000/000/137618688680913122430_IMG_0622.JPG

 日本最初のリゾートホテルといわれるのが、日光にある金谷ホテルである。

 金谷ホテル創業のきっかけは、ヘボン博士(ヘボン式ローマ字発案者)の勧めによるといわれる。したがって、最初から外国人専用のホテルとして、外国人の目を意識した趣が考慮されていたのは間違いない。

 明治6年に創業した当初は、木造2階建ての伝統的な和風家屋だった。その後、現在地にホテルは移転して本格的なリゾートホテルとして拡張が図られた。移転した当初の本館は、洋風建築を主体としたものだったといわれる。

 その後、和風を積極的に取り入れていき、洋館と和風意匠が混在する和洋混淆のエキゾチックなリゾートホテルに生まれ変わっている。

 大正期に入ると外観が和風の建物も建てられて、昭和7年には近代和風を象徴するような別館が建設されている。この別館は、付柱を外に表した真壁の建物で、正面に唐破風の玄関庇、屋根は入母屋を二重に重ねた複雑な形となっていた。

 そして、建物内には伝統的な和風意匠が所々に施されていた。内部の宿泊部屋は洋風と和風とに分かれていて、眺めのいい部屋は和風となっていた。

「エキゾチックジャパンここに極まれり」とでも言わんばかりのリゾートホテルの形が出来上がっていた。そして、金谷ホテルは現在もなお、その和洋混淆の不思議な和風建築の魅力を発揮して人々を魅了している。


引用:http://www.otoriyose-net.com/img/yado/17-2-l.jpg

日光金谷ホテル
http://www.kanayahotel.co.jp/nkh/

その他の近代和風建築

奈良ホテル

 古都奈良に外国人観光客が多く訪れることを見込んで造られたホテル。外国人の日本趣味に応えるように外部、内部ともに伝統様式を意識して建てられた。


引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nara_Hotel05s4s4272.jpg

旧大社駅舎

 文明開化の明治期では、公共の建築物は洋風とする場合が多かった。それは文明開化の波を地方に伝播するという役割もあった。しかし、歴史性ある地方都市の場合、あえて伝統様式を以って公共施設が造られていた。


引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kyu-Taisha_station01st3200.jpg

旧二条駅舎(京都鉄道博物館)

 二条駅は、最古の和風駅舎といわれる。近くの京都御所との関係から平安神宮の太極殿を模したのではないかと推測されている。1996年、新駅舎が完成し旧駅舎は移築されて、現在は京都鉄道博物館となっている。


引用:https://media-cdn.tripadvisor.com/media/photo-s/0e/13/60/0d/caption.jpg

おまけ/「千と千尋の神隠し」と近代和風

 今更言うまでもなくアニメ映画「千と千尋の神隠し」は、近代和風建築を巧みに取り入れていました。八百万の神様達が疲れを癒しに訪れる油屋は、以下の近代和風建築が素晴らしい温泉旅館を参考にしたといわれています。

道後温泉本館


引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:D%C5%8Dgo_Onsen.jpg

道後温泉について
http://www.dogo.or.jp/pc/about/

渋温泉金具屋


引用:http://trvimg.r10s.jp/share/image_up/32044/LARGE/zXugkT.jpeg

渋温泉金具屋
http://www.kanaguya.com/

四万温泉・積善館の本館

 千と千尋を観た人なら言うまでもない光景です。橋を渡ると別世界のような不思議な和風建築が威容を誇っています。実に非日常的で、情緒性に満ちた世界観だと思います。


引用:http://tabit.jp/archives/2040

四万温泉・積善館
http://www.sekizenkan.co.jp/

 近代和風建築のほんの一部をご紹介いたしました。より詳しい内容は、以下の書籍に掲載されています。興味のある方はぜひ御覧ください。

(文庫判)近代和風を探る[上巻] (エクスナレッジムック)
近代和風建築のもつバリエーションの多様さを明らかにすることを通して、その全体像を探る。
(文庫判)近代和風を探る[上巻] (エクスナレッジムック)

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