■映画史|アメリカ映画史4[パート2]マルレーネ・ディートリッヒ

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嘆きの天使 退廃と脚線美の女王マルレーネ・ディートリッヒ

嘆きの天使、退廃と脚線美の女王!

前回のつづき、
1930年代を彩った二人の女優、グレタ・ガルボとマルレーネ・ディートリヒ

嘆きの天使、マルレーネ・ディートリヒ

ガルボより4歳年上のディートリヒは、1901年にベルリンに生まれている。ガルボと同じく早くに父親を亡くしている。21歳で演劇学校に入りやがて舞台に出るようになった。その後、映画デビューを果たす。そして30年、彼女を一躍スターに押し上げた映画に出演することになる。それが「嘆きの天使」である。

この映画のなかで披露したディートリヒの脚線美はあまりにも有名である。また、歌える女優であることも証明してみせた。ガルボにスティレルという監督がいたように、ディートリヒにもスタンバーグという監督が彼女を成長させる原動力となった。

「嘆きの天使」の監督してハリウッドから呼ばれたスタンバーグは、数ある主役候補の中からまだ無名に近かったディートリヒを選び出す。この選択眼が正しかったことは、映画の成功が物語っている。そして、それは彼女をハリウッドへと導くのである。

ハリウッドに着いたディートリヒは、スタンバーグの家の向かいに住み彼から英語の手ほどきを受ける。これに嫉妬したスタンバーグの妻は、離婚訴訟を起こした。しかし、スタンバーグのディートリヒに賭ける情熱は変わらなかった。そして、ハリウッドでの第一作となる作品が決まった。

それが、あの有名な「モロッコ」である。若きゲーリー・クーパーを共演に迎えて、ディートリヒはその魅力を余す事なく魅せたのである。また、この映画でその退廃的な雰囲気と脚線美を存分に活かしている。「モロッコ」は興行的に成功し、この後2人のコンビは次々と映画を製作した。

また、ディートリヒは、当時ではめずらしい女性のパンツルックを多くの映画で披露し注目を集めている。これは、彼女のバイセクシャルな雰囲気を増幅させた。実際、そのような噂もあったようである。

ディートリヒの30年代前半は順調であったが、後半になると暗雲が垂れ込みはじめた。当時、契約していたパラマウントが経営難に陥ったのである。さらに、35年にスタンバーグが監督した「スペイン狂騒曲」という映画が、スペイン政府の言いがかりで上映できなくなった。

これがもとで、スタンバーグはパラマウントを去ることになった。この映画を最後に2人のコンビは解消された。スタンバーグはその後、他の映画会社で何本か作品を残すが以前の輝きはもうなかった。また、ディートリヒもその後、やはりパラマウントを去ることになった。

ディートリヒは、生涯現役であった

ディートリヒは、ガルボと違い多くの男性(女性もいた)と浮き名を流した。しかし、22歳のときに結婚した夫とは生涯離婚しなかった。不思議なことに、アメリカに渡った後、2人は一緒に住むこともなく夫は別の女性と暮らしていた。

一方、ディートリヒは、スタンバーグ監督をはじめ、ガルボの元恋人ジョン・ギルバート、ダグラス・フェアバンクス・ジュニアなど次々と浮き名を流す。

やがて、ナチによって祖国を追放された作家のレマルクと出会い、彼をアメリカで庇護しながらめんどうを見るようになる。しかし、レマルクが「凱旋門」を書き上げた頃に、別れることになった。ディートリヒに新しい男が現れたのである。それが、ジャン・ギャバンであった。

フランスの俳優であるギャバンは、ナチから逃れてアメリカに亡命していた、そしてディートリヒと出会い恋に落ちたのである。しかし、ギャバンは祖国をナチから救うために、自由フランス軍に参加する決意を固め帰国してしまう。ディートリヒも慰問団に参加しヨーロッパ戦線の各地でショーを行った。

このとき歌われたのが、あの有名な「リリーマルレーン」であった。

戦争終了後、2人はパリで生活をともに過ごすが、まもなくギャバンがディートリヒの行動を縛りはじめ、嫌気が差したディートリヒはハリウッドへと帰ってしまう。戦後、ディートリヒは何本かの映画に出演したが、ヒットしたのはわずかに「情婦」という映画ぐらいであった。しかし、彼女には歌があった。

戦後のディートリヒは女優というよりは、歌手として世界各地で公演することが多くなっていた。彼女は人生の最晩年まで歌っていた。

1992年、パリにて死去する。90歳であった。

以下は、ディートリッヒ主演映画のDVD各種。

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