■時代と流行|孫文と中国革命 革命いまだ成らず

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現在の中国を孫文は、いかに思うか

孫文とシナ

中国は、共産党という王朝に変わっただけ!?

1900年初頭、中国の清王朝は、諸外国(日本含む)にいいようにやられた末に、内部から起きた「辛亥革命」で最期のとどめを刺されて幕を閉じた。一応は、数千年の長きに渡った王朝支配はここに終わったとされた。そして、その後の混乱を収めた中国共産党が、中華人民共和国を樹立した。

それから半世紀以上が経った現在、中国はどうなっているか。

王朝が行っていた国家支配の構造は、主に皇帝、官僚、宦官が人民から収奪することで成り立っていた。収賄は当たり前、財政が厳しくなれば、人民から取り上げる。いささか乱暴ではあるが、当たらずとも遠からずである。

いわゆる支配層が生き残るための政治が行われていた。それが王朝であるに違いない。新しい王朝が誕生すると必ずと言っていいほど、皇帝は、側近をはじめ貢献した幹部たちを粛清した。王朝を打ち立てるために、散々働かせた末にである。何故なら、皇帝という絶対権力を確立するために、その不安要素を排除したに他ならない。有能な部下であれば、なおさらのことであった。

そして、長く続く続かないには例外無く、王朝末期が近づくと必ず内部から腐っていった。官僚、宦官の収賄はどこまでも広がって、皇帝でさえその実態を知ることがない。それをいいことに、ある時代の宦官は、皇帝の「万歳」に対し、自分には「9千歳」を唱えることを命じたとか。宦官おそるべしである。

そんな王朝末期になると、当然のように民衆から反乱の火の手が上がる。何度となく反乱の蜂起は繰り返されて、やがて王朝は崩壊してゆく。王朝が崩壊する際には、その権力者をはじめ官僚、宦官など何千人、何万人と殺されたそうだ。

中国では、権力者が変わるたびに旧体制の関係者はだいたい抹殺された。

そんな王朝支配が、何千年と続いたのが中国である。そして最期の王朝と言われた「清」は、1900年初頭の辛亥革命で倒された。(ちなみに、清最期の皇帝は殺されなかった)

それから時は流れ、中国共産党は、中国革命の父といわれる孫文が創立した国民党を打ち破り、中国を統一し国家樹立を果たした。

中国共産党が支配する中国は、その後どうなったか。毛沢東を絶対権力者として、その政治方針に異を唱える者は排除された。国家樹立後に行われた大躍進政策の失敗を正すべく、意見を言った幹部たちは次々と粛清された。それらの幹部たちは共産党が政権を取るのに貢献した人たちであった。

毛沢東に異を唱えた幹部たちは、直接または間接的に抹殺された。

さらに、その後に行われた文化大革命では、粛清の嵐は頂点を極めた。旧体制や文化を排除する、「造反有理」を合い言葉に徹底的な文化や秩序の破壊がされた。また多くの学者や文化人も弾圧された。このときに失われた中国の歴史的書物、建造物などの文化財は数多いといわれる。

中国共産党が国家樹立後に行ったことは、いわばかつての王朝のやり方を踏襲している。違うだろうか。

そして、現在の中国では国家の運営を担う幹部たちが、こぞって収賄に明け暮れているといわれる。なんだか、王朝時代の官僚、宦官とどう違うのか。


映画「阿片戦争」1997年製作 字幕なし

革命、いまだ成らずか

孫文(そんぶん、1866年11月12日 – 1925年3月12日)は、いまさら言うまでもなく、中国の革命家として最も有名な人である。しかし、現在の中国では毛沢東をおいて、革命の父はいないはずだ。

それでも現在の中華民国(台湾)では、国父(国家の父)として扱われているそうである。孫文が、中国本土を追われた国民党の創立者であったからである。(実質的には、蒋介石が指導し日本軍および共産党と戦った)

孫文にはいい面も悪い面もあったようだ。何かの本でそう呼んだ記憶がある。しかし、定かではないのでここでは控える。また、その評価も定まっていない。

革命家として活動し始めた孫文は、やがて当時の政権(清)から目を付けられて国外に逃れている。日本、アメリカ、イギリスなどである。したがって、多くの革命事案のときには中国国内にいなかった。清を倒した「辛亥革命」では、アメリカにいたそうである。

実際に革命の現場を指導したのは、孫文の盟友たちであった。そんな孫文が、なぜ現在でも革命の父と尊敬されているか。それは、孫文が革命の意味、目的を整理して、革命理論としてそれを広めたからである。

<孫文の三民主義>
民族主義、民権主義、民生主義の3つから成り立つと述べた。そしてこれが中国の国際的地位や国内的地位の平等化を可能とする救国主義であるとした。

この「三民主義」によって、いわば革命の象徴となったといえる。また、孫文はなかなか男前で人前で演説するなどに適していたようだ。(ちなみに毛沢東も「毛沢東語録」によって象徴性を獲得した)

中国革命の象徴的存在となった孫文は、海外逃亡のあいだ日本に長く滞在した時期があった。なぜか、かれを匿う勢力が日本に多くいたようだ。軍部とは関係なく、孫文の考え方に共感して多くの資金援助をした日本人もいたとか。

そして、「辛亥革命」が起きて清は滅亡した。孫文は、帰国し新政権「中華民国」の臨時大総統に就任した。しかし、その後、元・清の重鎮であった袁世凱の野望によって政権はひっくり返された。(第二革命)

袁世凱は、あろうことか帝政の復活を宣言し皇帝になると言い出した。それに反発して、反袁世凱、反帝政の蜂起が起きた。(第三革命)

その後は、地方の軍閥が入り乱れて混乱する体となった。苦境となった孫文は、ソ連との連携を図る。そして、ソ連の仲立ちで国民党と共産党との「国共合作」が成立した。しかし、これは後に怨恨を残すことになった。どうやら、孫文には目的のためなら手段を選ばないところがあったようだ。

1925年、ガンに侵されていた孫文は、北京で死去した。

その死の間際に残したのが、「革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし」という言葉であったとか。(この言葉は、同士である汪兆銘が書いた文言を許可しただけとも言われている)

それはともかくとして、孫文が目指した革命はいかなるものか。
現在の中国とは、どこが違っているか。はたして、孫文はどう思うだろうか。よくやったというか、まったく違うというか。興味あるところである。

ちなみに、孫文が唱えた「五族共和」は、いまの中国に当てはまる。もっとも共和にはほど遠いと思うが、とにかく内モンゴル、ウイグル、満州、チベット等を中国に組み込んでしまった。これは言葉を変えれば、「侵略主義」である。

<孫文の五族共和>
孫文は、三民主義の一つに民族主義を掲げ、秦以来万里の長城の内側を国土とした漢民族の国を再建すると訴えていたが、満州族の清朝が倒れると、清朝の版図である満州やウイグルまで領土にしたくなり、民族主義の民族とは、漢とその周辺の「五族の共和」と言い出した。(参考:ウィキペディアより)

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孫文「100年先を見た男」予告編

参考文献:日中百年の群像「革命いまだ成らず」、ウィキペディアほか

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『乳泉村の子』のシェ・チン監督が、私財をなげうって完成させた歴史大作。19世紀半ばの清の時代に、香港がイギリス領となっていった経緯を壮大なスケールで描く。

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