■映画|国民の創生 それは最高か最悪か

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いまの映画の原点はここにあり!?

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映画の父グリフィスとその映画の功罪

「国民の創生」といえば、紛れもなく現在に続く映画の道標となった作品である。そのことは多くの映画批評家も認めているので、間違いはない。そしてこの作品が、まさに「映画を創生」したと言っても過言ではない。それは、現在では当たり前に行われている映画手法の数々が、この作品によって確立されたからだ。

しかし、一方で映画がもたらす人々への影響力が、政治的に利用できる(プロパガンダ)ことの先駆けとなったのもまた事実であった。この作品以後は、映画が政治宣伝のツールとして活躍したのは今更言うまでもない。

「国民の創生」は、アメリカの南北戦争を背景に、南北の対立、人種的偏見、奴隷制度、民衆の蜂起(KKK、クー・クラックス・クラン)などを描いた作品だ。監督のグリフィスは南部出身であり、父親は南部の兵士として戦った経験があった。

この作品は、映画の芸術性、娯楽性において、映画の原点ここにありと言わざるを得ないほど素晴らしい。南北両軍が激突する戦闘シーンの見事な演出には感嘆するしかない。当時は、当たり前であるが、CGなどある訳も無く、また通信設備もなかった時代である。そのなかで数多くの人員が入り乱れる戦闘シーンをいかに演出したか。それはグリフィスの天才的な才能というしかない。

しかし、映画の演出としては最高であるが、物語としては問題があった。それは、グリフィスの視点に起因していた。かれが、映画の原作とした「クランズマン」という本は、アフリカ系移民(南北戦争時は奴隷)を排除しようと活動する「クー・クラックス・クラン(通称KKK)」を擁護していた。

したがって映画も、それに倣ってKKKを正義を行う集団として描いた。しかし、それは史実とは真逆であった。しかも、グリフィスはかなり意図的にそれを行った節がある。そこが問題となって、この作品は後に非難を浴びることになった。

「国民の創生」は、そのスケールの大きさ、演出の巧みさ等が相まって1915年に公開されるや大ヒットした。グリフィスは大変な利益を得たが、やがて物語の不自然さに気が付いた一部の良識派から異論が出始めた。グリフィスは、それに反論したが、誰もそれに耳を貸さなかったようだ。

何故なら、映画では黒人を悪として、白人を正義として描いたのはまぎれもない事実だったからだ。いかに「不寛容」を描いただけと言い訳しても遅かった。クー・クラックス・クランは違法活動の集団と禁止されていたが、この映画の大ヒットによって復活していた。これもまた、「国民の創生」の汚点となった。

評判のがた落ちしたグリフィスは、汚名を挽回すべく、不寛容(非寛容)をテーマとした「イントレランス」(1916年)という映画を全財産を投じて製作した。

「イントレランス」は、当時では信じられないぐらいの大金を投資した映画だった。そのセットは、いまでも有名である。独特のオリエンタル調?な雰囲気がする古代バビロンの城壁のセットは高さ60メートルもあったそうだ。また、城壁の上では馬車が通れたと言われている。

この作品は、異教に滅ぼされた古代バビロン、エルサレムでのキリストの受難、聖バルテルミーの虐殺、そして現代アメリカの労働者たちと体制の戦いなどを描いた。いわば、弱者の視点に立って描いたものであった。

壮大なテーマと莫大な資金で作られたが、話題にこそなったが、公開後の収益は悪く資金は回収できなかった。そして、グリフィスは「国民の創生」で得た莫大な収益を、わずか2年ですべて失ったと言われる。

それでもグリフィスは映画の制作を続けた。しかし、「国民の創生」を上回る成功は適わなかった。また「国民の創生」以後は、その贖罪のために映画を撮ったと言われている。

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詳しくは、こちらをどうぞ!
「國民(こくみん)の創生(The Birth of A Nation)」町山智宏

映画の父、グリフィスについて

D・W・グリフィス(1875-1948)は、アメリカ南部のケンタッキー州で生まれた。父親は、南北戦争で戦った南部の騎兵隊の将軍であった。その父親から、南北戦争の出来事を聞かされて育ったと言われる。

グリフィスは、やがて詩や小説、演劇の脚本を書く様になっていた。そして、その後は俳優としても活動するようになった。31歳で結婚しニューヨークへと移る。それでも、たまに小説が売れるくらいで食っていけない。そんな状況のなかで、たまたま映画の仕事を紹介される。

エジソン社で脚本を書いてみないかと誘われるが、最初は「映画なんていやだ」と断っていた。当時の映画は、文化・知識人にとって低俗と見なされていたからだ。しかし、食えないから、背に腹は代えられないと映画の仕事を受ける。

はじめは俳優として、その後は脚本家として活動する。そして、今度はバイオグラフ社から、監督をしてみないかと誘われて、しぶしぶながら引き受ける。しかし、この経験がグリフィスを映画の虜とした。

1908年「ドリーの冒険」を初監督した後、映画に取り憑かれたグリフィスは初作品から5年後にバイオグラフ社を去るまでに、500本を超える作品を送り出した。1日に14〜16時間は働いていたグリフィスは、やがて生活のすべてが映画一辺倒になっていた。その結果、妻とも離婚してしまう。

そんなグリフィスは、映画の革新的な手法を次々と編み出していく。

「クローズアップ」…俳優の顔等を大写しにすることだが、それまでの映画界では全身を映すのが当たり前であったとか。

「クロス・カッティング」…二つの異なるシーンを交互に映し出す。クライマックスなどの劇的な効果を狙ったものであった。

他にも、「フェイドアウト」「フェイドイン」「カットバック」「土壇場での大逆転劇」などもグリフィスが編み出した。

さらに、ひとつの作品のなかで複数のストーリーを語っていく試みもしている。(イントレランスなどは、そうではないか)

そんなグリフィスが、辿り着いたのが「国民の創生」であった。それは、40歳となっていた彼の集大成ともいうべき作品であった。かれが編み出した映画の手法はここに集約されて完成したといえる。

しかし、映画は映像や手法のみで評価されるものではない。「国民の創生」は真実を曲げて描いたことで、後にその評価を落とした。

評価を落としたグリフィスは、「イントレランス」で挽回を試みるが失敗。その後は、チャップリン、ピックフォードとともに独立映画会社「ユナイテッド・アーティスト」に参加するが、それもあまりうまくいかなかった。

1936年、61歳で再婚し(後に離婚)、同じ年のアカデミー賞で特別賞を贈られる。しかし、もはやグリフィスに創造の神は微笑むことはなかった。

1947年、ハリウッドのホテルの一室で死去(73歳)した。

グリフィスは、「国民の創生」以後は、大ヒットに恵まれなかったが、映画界に輝かしい功績を残したことは事実である。かれの編み出した映画の手法が、いまでも使われ続けているのが、その証である。

惜しむらくは、「国民の創生」の視点、描き方であった。

グリフィスの「国民の創生」から約100年が過ぎた現在、誰かが真実の史実に基づいた「国民の創生」を製作してもいい頃かもしれない。クリント・イーストウッド監督、またはスピルバーグ監督などはどうだろうか。

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イントレランス 1916年

参考文献:アメリカ映画の大教科書、「國民(こくみん)の創生」町山智宏、他

■国民の創生 1915年
監督・製作・脚本 : D・W・グリフィス
出演 : リリアン・ギッシュ、メエ・マーシュ
仕様 : モノクロ / サイレント
収録時間 : 185分

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