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■時代と流行|満州帝国 王道楽土の夢の跡

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日本は、広大な大地の満州に何を求めたか

広大な大地が広がる満州に、如何に日本は夢を追い求めたか。日清・日露戦争に勝利した日本は、中国大陸への足がかりを得た。しかし、直ぐに大陸進出に着手した訳ではなかった。1905年(明治38年)の日露戦争の勝利から、1928年(昭和3年)の「張作霖爆殺事件」まで、静かに野望を秘めた空白があった。

その空白の期間は、日英同盟がその野望を押し留める役割をしていた。しかし、1923年(大正12年)に日英同盟が破棄されると、陸軍を中心に満州奪取の勢いは加速していった。後に首相となった岸信介は以下のようなことを言ったとか。
(ちなみに岸信介は、現・首相の安倍晋三の祖父である)

岸信介曰く、
「日本は孤立したら生きていけないよ。孤立したときが一番あぶないんだ」

日英同盟を破棄した後、米国とも関係が悪化していた。そして、日本は昭和の大恐慌に突入した。孤立した日本は、これを機に満州へ活路を求めて、野望をさらに強くしていくことになった。

1905年の日露戦争で勝利した日本は、ロシアの中国大陸での権益を継承した。その後、1914年に第一次世界大戦に参戦した。ドイツに宣戦布告した結果、その権益を譲渡、さらに袁世凱(当時の中国代表)に対し「対華21か条」を認めさせた。ここに中国大陸の足がかりは固まった。

1911年の辛亥革命で清王朝崩壊。その後は混乱の極みに落ちた中国では、まさに動乱の最中にあった。地方軍閥が群雄割拠し、とても国を一つにまとめるどころではなかった。そんな状況の中国を尻目に、日本は密かに満州へと進出していく。

そのようなかで、清王朝最期の皇帝・溥儀は、天津の日本租界に亡命していた。

<陸軍が描く、満州のグランドデザイン>

満州に活路を求める軍部の勢力は「満州派」といわれた。中心には、永田鉄山がいて、他には東条英機、石原莞爾、板垣征四郎などがいた。彼らは「満蒙問題解決方策大綱」という計画書を作成した。

その骨子は、1)満蒙の領有、2)独立国家樹立、3)親日政権の樹立

そして、これを検討した結果、「領有」では中国、諸外国からの反発が必至である。そこで、「独立国家」を建設し、それを「親日政権」に運営させて、実質的には日本が支配する構造とすることにした。満州事変の3年半前のことであった。

これを立案したのは、陸軍である。まさに軍部の独走と言って他ならない。

満州事変はじまる。関東軍は、1931年(昭和6年)9月18日、柳条湖事件を起こして満洲全土を占領した。(日本のターニングポイントといわれる)

柳条湖事件とは、1931年9月18日、深夜の奉天郊外の柳条湖付近にある満鉄線が爆破された。これをきっかけにして関東軍は満州全土に進出していく。これを総称して、「満州事変」という。(ちなみに柳条湖事件は関東軍が起こした)

満州国の位置
満州国と周辺国

満州国建国とその夢の跡

1932年(昭和7年)、満州国が建国された。執政に元清朝皇帝の溥儀を据えた独立国であった。しかし、その実態は日本(特に軍部)が支配する国家の誕生であった。溥儀は陸軍に担がれた神輿に過ぎなかった。

満州国には、日本から若手官僚が続々と抜擢されて赴任していた。実質的な国家の運営はそれらの官僚に託された。新しい工業化社会の実現を目指して猛烈な勢いで資本が投下され、工場、都市、そして交通網が建設されていった。

1936年、満を持して卓越の手腕を期待された岸信介が満州に赴任する。彼は、翌年には、官僚組織のナンバー2となり、実質的な経済運営を任された。

岸は、赴任後に「満州国五カ年計画」を策定し、国家建設のスピードを上げていく。満州国は、日本にとって一大国家プロジェクトであった。満州の主要都市には満鉄が経営するヤマトホテルが造られた。国会議事堂を模した国務院、威容を誇る経済部、満州重工業本社ビル、満鉄本社・支社、満州中央銀行、赤煉瓦の関東軍本部、等々が続々と建設されていた。

そして、大連、奉天、新京、ハルピンを当時最速の満鉄あじあ号が結んでいた。満州の原野に大都市が誕生していた。

しかし、一方では不穏な足音が近づいていた。それは中国国内の内戦に関与した結果、泥沼となりつつあった。中国では、国民党、共産党との三つ巴の戦争に突入した。そして、1941年にはアメリカに宣戦布告し、太平洋戦争に突入していく。それは第二次世界大戦の幕開けであった。

その後の出来事は、いまさら言うまでもない。

終戦後、満州国の資産は、国民党との争いに勝利した共産党が樹立した中華人民共和国に引き継がれた。その資産は、現在の貨幣価値で数百兆円になるそうだ。どれだけ日本が、満州に入れ込んでいたかが分かる。

日本が行った満州のインフラ整備は、その後の中国に貢献したはずである。しかし、現在の中国はそれを認めようとはしない。

広大な大地を疾走するあじあ号、巨大な工場群、そして都市。日本人の英知と努力の賜物として結集したのが、満州国であった。その壮大な夢と試みの跡は、いまでも中国に残っている。

満州国はその建国時点で危うい運命にあった。それは、建国の趣旨にあったのは言うまでもない。(満州国は国際連盟で認知されなかった)しかし、その後の国家建設に携わった人々の英知は、その後の日本の復興に役立ったのは間違いない。

最後に、日本のターニングポイント「満州事変」のきっかけである柳条湖事件の様子を紹介します。参謀本部編纂の「満州事変史」には以下の様に書かれていた。

「陰暦7日の月は高梁畑に没して暗く、星光淡く輝くのみ」

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旧・満鉄本社 大連

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旧・関東軍司令部

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旧・新京 大通り

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溥儀 長春の宮殿

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溥儀の御料車

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特急あじあ号

冒頭写真:旧・国務院(国会議事堂を模した建物)
参考文献:満州帝国史、ほか

満州帝国史―「新天地」に夢を託した人々 (新人物ブックス)
「五族協和」の楽土か?「傀儡国家」か?国家のグランドデザインを通して明らかにする、満州国の実像。

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