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■社会|安保反対デモと集団心理 集団で騒ぐのは気持ちが高揚する

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同じ意見の個人同士が集団になると、そこに集団心理が働くそうです

■「民主主義」とは、意見の違う相手の立場を尊重すること

 つわものどもが夢のあと?となった国会前は、いまでは閑古鳥が鳴いているとか。それはジョーダンであるが、とにかくメディアが騒ぐほどには一般市民は動かなかったのは明らかだ。一部の学生、クリエイター、学者先生などが、正義は我にありとばかりに太鼓を叩いてわっしょいしていたが、さぞ気持ちがよかったに違いない。いまごろは、今度はどこで騒ごうか相談していることだろう。

 それはまるでイベントサークルのようだ。大勢の人々を動員して世間を騒がし、その責任を誰がどこまで背負っていくのかが見えてこない。リーダーがいないと言われるが、それは責任を逃れる方便としか思えない。なんとも日本的な手法である。それに乗っかった野党は、さらに始末に負えない。

 当方は、安倍政権の支持者ではない。しかし、SEALDsにも、民主、共産にも賛同しない。そして、安保反対(正確には改正法案)派の口汚さには閉口するばかりである。やれ、「安倍は人間じゃない」、「国民なめるのもいいかげんにしろ」、「てめえが歴史に名を残したいだけ」とか感情的すぎるものばかりだ。

 また、自らの意見を国民の総意のように振る舞うのも疑問である。安保改正法案を戦争法案とするのは、端的に言えばプロパガンダの手法に違いないだろう。物事を単純化して、民衆を煽り立てるやり方である。それは過去にはヒトラーのナチスも、共産党もしてきたことだ。

 安保反対派は、「民主主義は死んだ」というがはたしてそうか?。安保反対派の意見が通らないことが民主主義でないなら、その反対意見が通らなかったらどうか?。おなじことが言えるはずだ。民主主義とは、多様な考え方を受け入れることにあり、けっして単一の考えを押し付けるものではない。

 前述したように、今回のデモには芸能人やクリエイターなどが参加していた。しかし、その多くがいまいち論理的でなく感情的でしかなかった。なかには、「戦争は文化ではない」などと単なるダジャレを言いにきていた芸能人もいた。ちなみに、戦争は文化の種をまき散らしていた。

 歴史を顧みれば分かるとおり、人間は戦争をこれまで止めたことがない。従って、文化もそれと共に育ってきたのは言うまでもない。不倫が文化(某芸能人曰く)というならば、戦争にも文化があってもおかしくはない。

 とにかく、今回の安保反対デモで気に掛かったのは、実際のデモ参加者は数万人程度であり、60年代の安保反対デモには比べようがなかった。それでも何故か、メディアの報道量はめちゃくちゃに多かった。それは集団心理を煽ろうとも思えたがいかに。しかし、メディア(一部の新聞とテレビ)の思惑は外れた。一般市民もそこまでバカではない。それこそ舐めるなとメディアに言いたいはずだ。

太鼓を叩いていた子達に「民主主義」と「民主主義の敵」を教えよう(BLOGOS)

「民主主義」とは、意見の違う相手の立場を尊重することです。

ですから「平和安全法案」を勝手に「戦争法案」と呼ぶような人達は民主主義の敵です。

与党の人達は、万が一心の中で思っていたとしても、国会の議場で民主党や共産党、社民党の人達を「売国奴」とは呼びませんし、山本太郎氏を「低能」とも呼びません。少なくとも、国会は民主主義の実現を目指す場だと心得ているからです。

集団心理(または群衆心理)とは、群集状況のもとで醸成される、群集に特有な心理のこと。
イギリスの心理学者W・マクドゥーガルは、その特徴を以下の様に整理している。(参考ウィキペディアより)

<集団心理の特徴>
(1)過度の情動
(2)衝動性
(3)暴力性
(4)移り気性
(5)一貫性の欠如
(6)優柔不断
(7)極端な行為
(8)粗野な情動と情緒の表出
(9)高度の被暗示性
(10)不注意性
(11)性急な判断
(12)単純かつ不完全な推理
(13)自我意識、自己批判、自己抑制の喪失
(14)自尊心と責任感の欠如による付和雷同性

 魔女狩りという集団心理が有名であるが、安保反対派にはその心理が透けて見えるようだが、違うか。同一意見の集団は、ときにとんでもないことを仕出かす。それは過去にはいくらでも例があり、魔女狩りはその一例でしかない。

 かつての大日本帝国の軍部による「鬼畜米英」もおなじくである。

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 そんな集団心理の怖さをホリエモンこと堀江貴文氏は以下の様に述べている。ちなみに当方は、ホリエモンシンパではありません。どちらかといえば、その逆です。あしからず。

堀江貴文氏 SEALDs活動の現状に警鐘「内ゲバで仲間を殺す危険を感じる」(ライブドア)

堀江氏はまず、クリエーターやアーティストの一部が「no nuke」「love and peace、war is over」などの言葉やマークをファッション的にカッコいいとみている現状を持ち出し、こうした主張に反対する人が、彼らから仲間外れにされたり、カッコ悪いととらえられることに「恐怖を覚えている」と指摘した。

その上で堀江氏は、「こういう集団心理は例えば戦争や虐殺なんかを肯定する方向に振れると非常に危険だ」「多くの参加者がミスリードされた言説を盲信して突き進み、それに疑問を呈する者を徹底的に糾弾するからだ」と論を進め、先鋭化していきがちな運動に警戒心をあらわにしている。

 昔からクリエーターやアーティスト(他には出版系)の人々は概ね反権力であったと思う。何故そうだったのかよくは分からないが、既成概念を打破することに通じていたからではないかと思われる。進歩的でありたい、またはそう思われることで自らのステータスを感じていたのではないか。

 うがった見方といえばそれまでであるが、何を隠そう自分もおなじ感覚にあった時期があるのでたぶん間違いではない。従って、いまでは尊敬するクリエーター、好きなアーティストであれど、政治的な発言に同調することはない。生み出す作品と政治的な信条とは、別の次元で捉えるようにしています。

 例えば、ジョン・レノンもそうです。「love and peace、war is over」は、ジョンが妻のヨーコと始めた平和運動でした。それ自体はいいのですが、具体的な解決策は無いも同然でした。それはイメージが先攻した、いわばアート活動でした。それに気が付いた後でもジョンの音楽は好きです。

 最近では、好きな映画監督である園子温氏が安保反対派を公然と表明していた。しかし、それと作品とを同一視はしていません。

 とにかく、例え意見は違っていても、それはそれとして、多様な意見を受け入れる本来の民主主義に賛成したいと思っています。さらにいえば、言うまでもなく「戦争には反対」です。ただし、安保反対派デモのみなさんとはベクトルが多少違っています。

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