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エンゼルラジオ J-POPの夜明け前、80年代和製ポップスを顧みる

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J-POPの夜明け前、80年代和製ポップスを顧みる

音楽… 大滝詠一「君は天然色」、大きく鳴り響き、徐々に小さくなる。

DJ…
ハロー、マイフレンズ、ようこそエンゼルラジオへ。
DJのコーネリアスです。ゆーくりしてってね。

 さて、本日のテーマは、J-POP以前の和製ポップスのヒット曲を選んでお送りいたします。乞うご期待ですよ。お楽しみにしてくださいね。

 さて、J-POP(Japanese Popの略で、和製英語)とはなんぞや。いまでは当たり前に使われる和製ポップスを意味する呼称ですが、80年代では、まだ一般的ではありませんでした。

 J-POPという呼称は、1988年ごろ東京のFMラジオ局、J-WAVEが日本のポップスをどう呼称するかを検討した結果生まれた造語でした。

 当初は、J-WAVEでしか使われていなかったそうです。そして、90年代になり渋谷系などが誕生する頃には、J-POPという呼称は、マスメディアのみならず、一般にも認知が浸透していました。

 したがって、80年代はまさにJ-POPの夜明け前といえます。
80年代の和製ポップスには、テクノポップス、ニューウェーブ、シティポップス、バンド系、ユーロビート系など多様な音楽様式が誕生しました。

 さてさて、ではでは、さっそく80年代初頭の感性時代の幕開けを飾ったテクノポップ、YMOの「ライディーン」をまずはお聴きください。

YMO/ライディーン 1980

 さて、ここからは80年代の時代背景とともに、当時の和製ポップスを年代順に紹介していきます。時代背景は、「80年代|日本のゴールデンエイジ ’80s(パスワードは一万年愛す)」より引用して解説していきます。

 エンゼルラジオ J-POPの夜明け前、80年代和製ポップスを顧みる。さー、はじまります。DJは、コーネリアスがお届けします。

80年代|日本のゴールデンエイジ ’80s(上篇)80年〜84年

1980年 黄金の幕開け

マンザイとテクノ
 70年代という、ある意味では真面目な時代を経て、80年はいきなり不真面目?ともいうべき傾向を表していた。マンザイブームが起きていた。それは80年代を通して共通する享楽的なムードを象徴するものであった。やがて、某テレビ局は”楽しくなければテレビじゃない”とまで宣言していた。

 さらに、おなじバカなら踊らなソンとばかりに踊り狂う、竹の子族が原宿の歩行者天国を占領していた。ファッションでは、保守層にはニュートラ、先端層にはモノトーンが流行っていた。そして、音楽のテクノから発生したテクノカットという新しいヘアースタイルも現れていた。

 YMOという音楽ユニットが海外での成功を引っさげて登場し、あっという間に人気となった。ニューウエーブ、またはテクノと呼ばれたその音楽は、まだJPOPのない80年代音楽の大きな潮流となっていた。

Plastics – Welcome back (1980 – Full Album)

1981年 感性の時代はじまる

不思議大好き
 80年代は、いよいよ本領を発揮し始めた。西武百貨店は、この年の広告キャンペーンで「不思議大好き」というフレーズを大々的にアピールしていた。これこそ80年代を代表する”感性消費”の幕を開けた根源と言っても過言ではない。

 そして、「なんとなくクリスタル」というスノッブ臭の小説が注目を集めた。小説に登場する高級ブランド品やレストラン、流行現象など、それぞれに注釈がついていた。これは、現在に続く日本人の海外ブランド品への過剰な価値観を広めて、カタログ文化の先駆けとなった。

 日本のファッションデザイナーが海外で注目され始めた。山本耀司、川久保玲、島田順子がパレコレに参加した。とくに川久保のアシンメトリーで黒ずくめの衣装が評判を呼んだとか。日本では、それを模倣した安価な製品が出始めていた。

 川久保や山本のファッションに端を発した「カラス族」が大量に発生していた。しかし、みんなが本物(川久保などの)を着ていたかは知る由もなかった。

 渋谷パルコ・パート3に生活雑貨店「アフタヌーンティー」がオープン。雑貨とカフェが融合した新しい業態として注目を集めた。何よりも、雑貨を単なる家庭用品ではなく、ライフスタイルを構成する重要な要素としたところが新しかった。

 従来の家庭雑貨に変わって、”生活雑貨”という名称が80年代に誕生したと言っても過言ではない。そして、この頃から雑貨ブームが起きていく。

 80年頃から始まったレンタルレコード屋という新業態が人気を集めていた。あまりに人気があったため、レコード会社から違法として訴えられる。そして、双方が話し合い権利を許諾したものだけがレンタルされることになった。

 街中では、新手の風俗が発生していた。それが「ノーパン喫茶」である。いま思えば、なんともはやであるが、当時は隆盛を誇ったものである。風俗というカテゴリーは、この頃から勢いを増してアンモラルに突き進んでいく。

 この年には他にも面白いモノ、コトが発生しているが、それらを「不思議大好き」というワードで一括りにしても可笑しくは無い。それぐらい、不思議大好きは時代を表していたと思われます。

松任谷由実/守ってあげたい 1981

1982年 アナログからCDへ

おいしい生活
 この年の西武百貨店は、またも不思議なフレーズでキャンペーンを行った。それが、あまりに有名な「おいしい生活」である。おいしい生活とな何だ?、なんとなく感性で捉えろと言われているのは判る、それは不思議大好きとおなじ路線といえた。また、やわらかい個人主義とも無縁ではないと思われるがいかに。

 なお、個人的には、「画一化した生活ではなく、個々の趣味趣向に合わせた生活を豊かに過ごす」という意味だと解釈しています。違うか。

 ソニーはCDの生産を開始し、CDプレーヤーを発売した。音楽はアナログからCDの時代に突入した。ソニーはこの頃は、いまのアップルみたいな存在だった。ちなみにこの頃のアップルは、初代マッキントシュの開発をしていた。

 タモリが「笑っていいとも」の前身となる番組を開始した。この番組が、つい最近まで続くとは、その頃には誰も思わなかったはずである。当時のタモリさんは、とにかく危ない雰囲気を醸し出していたからだ。

 日本発のクラブ誕生。ピテカントロプス・エレクトスという不思議な名前のクラブが原宿にオープンした。音楽プロデューサーの桑原茂一とミュージシャン中西俊夫の共同作業で造られたといわれる。

 このクラブの誕生は、DCブランド「バツ」のオーナーから、いい場所があるから何かやらないか、と誘われたことから始まったそうである。通称ピテカンでは、ニューウェーブ系のバンドが数多くライブを行った。80年代を代表するカッコいい場所として伝説的なクラブとなった。

い・け・な・いルージュマジック 忌野清志郎+坂本龍一 1982

1983年 ゲームの時代はじまる

ゲームとおたくの出会い
 ニンテンドーが「ファミコン」を発売、ここからゲームの時代がはじまった。やがてゲームが単なるおもちゃを超えて、一大事業になると予想した人はあまり多くないに違いない。しかし、ゲームは80年代を通して拡大し、90年代にはさらに大きく花開いたのは今更言うまでもない。

「おたく」という言葉と意味性が、中森明夫(ライター)によって発見?および定義された。その呼称は、コミックマーケットで参加者たちが、相手の事を”おたく”と呼んだことに由来していた。現在は、おたくからオタクへと変わっている。

 テーマパーク「東京ディズニーランド」が千葉舞浜にオープンした。施設の概算費用は約1600億円といわれた。既存の遊園地が一気に陳腐化したのは言うまでもない。これを機にテーマパークという娯楽施設の概念が、日本中に広がっていった。そして多くの類似施設が誕生することになった。

 女子大生を主役にした番組「オールナイトフジ」が放送を開始した。この番組によって、女子大生がクローズアップされて一大ブームとなった。やがて、海外高級ブランドを身に纏う女子大生などが、やたらともてはやされた。

 この頃から高級ブランドと女子大生は密接な関係になっていた。そして、バブルはすぐそこまで迫っていた。女子大生はバブルに準備万端整えていた。

 そうだ、思い返せば、80年代は女子大生の時代でもあったのだ。しかし、この後には協力なライバルが現れてくるが…。

Yellow Magic Orchestra -「君に、胸キュン。」1983

1984年 バブルまであと少し

お金が降ってくる
 1984年といえば、思い出されるのがジョージ・オーウェルの小説「1984年」であるのは言うまでもない。1949年に書かれたものである。市民生活がほぼすべて当局に監視されている世界を描いている。

 で、実際の1984年はどーだったか。日本ではバブルまで後少しと迫った時期であり、すでに若干浮かれぎみだったのは否めない。監視社会とは違ったが、もっと恐ろしいものが迫っていたともいえるだろう。
 
 まだバブル期にはちと早いが、ディスコ「マハラジャ」が麻布十番にオープンした。80年代後半のバブル全盛期には、アルマーニを着た男とボデコンのミニスカおねーさん達で店は一杯であったといわれる。とにかく繁盛したディスコとして名を轟かせた。多店舗チェーン化したディスコとしても有名である。

 この年には、日経平均株価が1万円を超えた。しかし、まだまだだ。やがて天井知らずに株は上げていくことになるからだ。

 音楽では、レベッカがデビューしている。ロックで女性がボーカルをとるのは当時はまだ珍しかった。ボーカルのNOKKOさんは、女性ロックボーカルのはしりとなった。海外では、ソロでマドンナが活躍していた。

 80年代は、テクノの印象があるがそれは一部の間のことであり、多くの音楽ファンは日本製ロックを聴いていた。日本のロックシーンが一番熱かった時代でもあった。そして、90年代になり、JPOPと呼称を変えて引き継がれていく。

 一方、80年代の幕開けと共に登場したニューウェーブの活動の場であったクラブ・ピテカントロプスが閉店を余儀なくされた。尖った時代の申し子であり、カッコいい象徴でもあったが、僅か3年余りしか続かなかった。

 米アップルコンピュータがマッキントッシュを発表した。このコンピュータの登場によって、コンピュータの未来はパーソナルユースへと大きく舵をきっていった。

安全地帯「ワインレッドの心」1984

80年代|日本のゴールデンエイジ ’80s(下篇)85年〜89年

1985年 新人類、現れる

 1960年以降生まれの若者たちを「新人類」とする呼称が広まっていた。なお、新人類といっても、生物学上の新種の人類ではなく、分類上の新種ということである。ちなみに現在では、ほぼ死語となっている。

 新人類という呼称は、「従来とは異なった感性や価値観、行動規範を持っている」と規定し、否定的にも肯定的にも幅広く使われた。80年以降の入社組、80年代サブカルの中心世代、当時の若手芸能人などが当てはまる。

「新人類」としてマスコミによって取り上げられていた代表的な人物として、秋元康、尾崎豊、北尾光司、石橋貴明、清原和博、戸川純、いとうせいこう、みうらじゅんなどが挙げられる。

 この頃には、「新人類(ニューウェーブ)」と「おたく」という、対極する2軸がなんとなく明らかになった。この二つの軸は同時並行していき、やがて大きな流れとなっていった。90年代に新人類は死語となったが、その精神性は「渋谷系」などに受け継がれ、またおたくは「オタク」となり定着化した。

 80年代はファッションが注目されたが、それは男性にも広がりを見せていた。「DCブランド(デザイナー&キャラクターブランド)」は、メンズ需要にも応えるべく積極的にアピールをしていた。そして男も女もブランド物づくしとなっていた。

 とにかくこの時期は、ブランドの価値が異常に高まっていた。単なる標章ではなく、イメージとして受ける印象が大事となっていた。言葉を変えれば、ブランドと同期することで自分も高まると錯覚していたといえる。

 さらには、オシャレが重要な価値として比重が大きくなっていた。若者達は、かっこいい自分をファッションで演出することを厭わなかった。

 芸能では、「おニャンコクラブ」というアイドルの集団が現れていた。いまをときめく秋元康が仕掛けた、女子高生を中心としたアイドル達であった。当時の中・高校生には、絶大な人気を博したのは言うまでもない。

フレンズ /レベッカ 1985

1986年 バブルが膨らみはじめる

「プラザ合意(1985年)」を受けて、日銀はお金を沢山刷って市場に流し始めました。その結果、銀行は貸し出し競争となり、貸し出された資金は不動産に集中し、土地価格を押し上げました。さらに、高くなった土地を担保に、またお金を借りるという無限連鎖的な錬金術が常態化していきました。

 バブルが膨らみ始めていました。土地や株があれば、いくらでもお金を借りられる。そのどこに終着点があるかも判らずに、多くの企業、人々が土地や株に投資しました。ババを掴むのは誰かなんてことは、まだ考えていなかった。

「NTT株」が、高値で売り出されるなど、株投資が話題になりました。この時期からが、日本が世界に名を轟かしたバブルといえます。(1987年からという説もあり)

 土地高、株高を背景に一種の金余り現象となり、それは企業だけでなく、一般人にもその恩恵は少なからずありました。企業は、多くの人材を採用し、また高い給料を払う様になっていました。それによって、消費活動も活発化していきました。

 人はお金が身の丈以上あると、決まって身の回りを高級化していきます。ファッション、自動車、住まい、遊びなどにです。まず、海外ブランドの高級品が売れていきました。クルマでは、ベンツ、BMWなどが売れて、日本車もシーマ(1988年)など高級車の需要に応えるものが発売されました。

 街中では、「ディスコ」が隆盛となり大型化していた。そこでは、「ボデコン(ボディ・コンシャス)」のミニスカートを着た女性が主役でした。このボデコンのミニワンピースは80年代後半を象徴するアイテムとなっています。(ボデコン自体は、80年代初頭にデザイナー、アライアによって発案された)

 ディスコなどの夜の社交場は、アンモラルな雰囲気に惹かれて、灯りに集まる蛾の如く、多くの人々で一杯となっていた。「お金と色と欲」が融合したバブル期ならではの特徴を色濃く表していました。

渡辺美里 「My Revolution」1986

1987年 上質な生活という風潮が広がる

 80年代後半は、バブルの勢いが年々増していくが、ここではそれに関する話題ではなく、別の観点で時代を捉えてみたいと思います。

 この年には、「渋谷にロフト(西武系の雑貨専門大店)」がオープンしています。東急ハンズ(70年代開業)と一見似ていますが、その成り立ちの背景を考えると似て非なるものでした。それは、80年代初頭から始まった「雑貨ブーム」と無縁ではありませんでした。

 雑貨ブームは、かつては家庭雑貨、あるいはガジェットなどと呼ばれた商品群が、「生活雑貨」という新しいカテゴリーになったことで生まれました。それは生活環境をより豊かにしたい、という80年代の感性消費を刺激しました。

 また、80年代の「大衆から分衆へ」という流れのなかで、個の価値基準が多様化していくことにも適合していました。

 無印良品、アフタヌーンティー、フォブコープなどの高い人気は、「生活雑貨」というカテゴリーの認知を拡大していきました。その延長線上にロフトは誕生したと思われます。”ドゥ・イット・ユア・セルフ”がテーマの東急ハンズに対して、ロフトは、”生活環境の充足感”に焦点が当てられていました。

 東急ハンズはニーズ(顕在化した需要)に、一方、ロフトはシーズ(潜在的な需要)に対応していたといえます。この違いは、意外と大きいはずです。もっと判りやすくいえば、カッコいいオシャレに対応したのがロフトでした。

 オープンしたときに、当方はすぐに行った記憶がありますが、いまと違ってかなり品揃えが先鋭的でした。アート、デザインにこだわりを見せていて、店内の各所には大きなオブジェが鎮座していました。

 やはり、バブル期の新業態です。お金が掛かっていたのは間違い有りません。商品の価格もけっこう高く、いまの感覚とはだいぶ異なっていました。その後は、価格帯はこなれていきましたが、当時は価格ではなく、生活の豊かさを生む、質やデザイン、希少性などに重点が置かれていたと思われます。

 ロフトの開業当時を思い浮かべると、80年代の感性消費は、明らかに上質志向へと向かっていき、生活環境にこだわることへの感心が高まっていました。

 80年代後半の日本では、デザインへ注目が集まり、やがて「デザインの百花繚乱」状態となりました。世界中から著名建築家、デザイナーが訪れ、建築、インダストリアル、インテリアデザインなど多くのプロジェクトを手掛けています。

「ポスト・モダン」のデザインが、もてはやされたのも80年代です。メンフィスというデザイングループの奇抜なデザインのインテリアは話題を呼びました。(なお、ポストモダンのデザインは、80年代後半には失速しています)

 アートの分野では、佐賀町エキジビットスペースで大竹伸朗の個展が開催されています。この展覧会は、いまでは伝説的なアートイベントとして語り継がれています。

 そして、バブル景気に湧くTOKYOが、パリやロンドン、ニューヨークと並ぶ現代的な都市として注目されるようになりました。

BOØWY:「MARIONETTE (マリオネット)」1987

1988年 文化が爛熟化?する

 バブルは、加速化して土地は急騰し、株も上昇していた。「リクルート疑惑」が政界を揺るがしていた。ソ連ではペレストロイカが始まっていた。

 金余りを背景に、「文化が爛熟化」するかの様な呈をなしていた。建築やデザインには奇妙な傾向が顕著に現れた。例えば、奇抜さだけの建築に多くの資金が投じられていた。海外の有名建築家やデザイナーは日本をデザインの実験場としていた。

 村上春樹「ノルウェイの森」(1987年12月)が、大きな話題を集めてベストセラーとなっていた。政治や経済がアンモラル化するなかで、世相もそれに引き摺られていた。そのような背景のなかで登場したこの小説は、登場人物の死や失踪、過剰な性的描写などに溢れていた。

 したがって、けっして明るい内容とは言えず、世相の楽観ムードとは対極にあるものであった。まるで、この先を暗示するかの様にである。

 経済絶好調(バブルのおかげ)の日本は、海外ではやっかみも含んで揶揄されていた。当時のフランスの閣僚は、「日本はルールを守らず世界征服を企む敵だ。これを理解しないのは愚かだ」と言ったそうである。

 さらに、フランスのメディアでは、「貪欲ニッポンの抗し難い上昇」、「ニッポン、恐怖を巻き起こす国」、「日本は殺し屋」など、日本人からは理解し難い特集記事やヘッドラインが掲載されていた。

 なんだか人種的偏見も関係ありそうな気もするが。それにしては、現在同じ様なことをしている中国に対しては、何故か容認しているようである。

 とにかく、文化大国のフランスが危機を感じる程に、当時の日本のバブルが凄まじかったことを象徴していると思われます。

Salon Music (サロンミュージック): O Boy (1988) [Full Album]

1989年 バブルの頂点と昭和の終わり

 昭和から平成へ、昭和天皇が崩御し平成元年となった。平均株価が年末には、3万8915円の市場最高値まで上昇した。不動産価格も1990年まで高騰を続けた。

「リクルート事件」(「リクルートコスモス」の未公開株を、政治家や官僚、財界有力者に譲渡した)が世を騒がせた。政界、官界、財界では多くの人が収賄容疑に問われ、そのうち何人かは起訴された。

 バブルもいよいよ頂点に差し掛かっていた。しかし、それでもまだイケルという風潮もあり、三菱地所はロックフェラーセンターを買収、ソニーはコロンビア映画を買収した。また、芸能人の不動産屋までがハワイ等の不動産を買い漁っていた。

 それに対し、海外では非難の声が上がっていた。これも、いまでは中国が同じことをしているが、あまり非難の声を訊かないのは何故か?。

 若者の間では、「渋カジ」と呼ばれたスタイルが注目を集めていた。発生した渋谷にちなんだカジュアルの略であり、上品なコンサバを取り入れた着こなしがオシャレとされた。紺のブレザーなどの人気が高くよく売れていた。

 一方では、ラルフローレンに代表される伝統を下敷きとしたニュークラシックともいうべきスタイルも人気が高くなっていた。バブル景気を反映した高級、本物志向が影響していたと思われる。

 音楽では、FM局のJ-WAVEが「Jポップ・クラシック」というコーナーを始め、邦楽を流すようになった。この頃から「Jポップ」という言葉が使われるようになり、やがてそれは定着しました。

 海外では、ベルリンの壁が崩壊した。東西ドイツの壁が取り壊されて、翌年には東西統合へと向かった。中国では、天安門で騒動(天安門事件)があり数千人が犠牲となった。

淋しい熱帯魚 / Wink 1989

 さー、いかがでしたでしょうか。J-POPの夜明け前の80年代和製ポップスは、いまでも魅力的で、かつ輝いていると感じていただけたら幸いです。

 また機会があれば、別の楽曲も紹介したいと思います。では、また逢いましょう。シーユーアゲイン、コーネリアスでした。

追記:
とあるイベントの企画素案として創作したものを掲載しました。ご了承ください。

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