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小説創作|とうきょうながれもの 其の四:与三郎、そうだ京都へいこう

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あの胸にもういちど

吉国父、本能に負けた

 なにげに空を見上げると、すっきりと晴れた冬の空のなかに、雲がゆっくりと漂い流れていた。もうすぐ春かなーなんて思いながら、矢那川に設けられたコンクリート製の堤防に寄りかかって、タバコを吸っていた。

 遠くからドッド、ドッドという単気筒のバイク特有のエンジン音が聴こえてきた。もえたんこと、吉国萌絵ちゃんが出社してきたのだ。

 バイク女子の萌絵ちゃんは、ロードレーサー風のライダースーツを着ていた。まるで、映画「あの胸にもういちど」のマリアンヌ・フェイスフルみたいだった。

『ヨサさん、おはようございます』
『おうよ、萌絵ちゃんライダースーツがよく似合ってるね』

 一瞬、萌絵ちゃんはうれしそうにしたが、すぐに真顔になるとおれに言った。

『きょう、父のとこへいくんですか』
『ああ、いくよ。きょうはお父さんに最後通告を突きつけてやるぜ』と言っておれはにやりとしていた。

 萌絵ちゃんのお父さんこと吉国京三さんは、あろうことかAV作品に男優として出演して、スケベの本領が広く周囲に知れ渡ってしまった。当然のように家族は怒り心頭となり、奥さんは夫である京三を追い出してしまった。

 両親の関係が最悪となった現状に不安となった萌絵ちゃんは、おれになんとかあいだを取りもつように依頼したのだった。

 きょうは、怒り心頭の奥さんが夫を許す最低条件を伝える日だった。

 吉国京三さんは、「吉国太陽不動産」という会社を経営していた。自宅を追い出された吉国さんは、仕方なく一旦はホテルに泊まっていたが、いまでは自分が所有する賃貸住宅の一室に住んでいた。

 駅東口からほど近いところにある、木質パネルで組み立てられた典型的な賃貸集合住宅だった。外観は以外と瀟洒な雰囲気だった。

 吉国さんの住む部屋のドアフォーンを鳴らすと、部屋の奥から返事があり、すぐにドアが開いた。部屋は1DKの単身者用の間取りだった。必要最低限の家具類があり、どれも同じテイストだった。たぶんニトリで一式揃えたのだろう。

『藤原さんかい、待ってたよ』
『どうも、お邪魔します。その後、どうですか』
『どうもこうもないよ、外出もままならないよ。ほんと噂はこわいね』

 いやいや、噂ではなく事実だろうと言いたかったが、それをぐっと押し込んで吉国さんとテーブルに向き合って座った。

『で、どんなぐあいになったかな』吉国さんは不安な面持ちでおれに訊いた。
『そうですね。単刀直入に言いますと、奥さんは離婚してもいいそうです。ただし、その場合は、現有資産の分割と慰謝料を請求するそうです』

『まじかー、まじかー、かんべんしてくれよー』
『まー、訊いてください。もうひとつ離婚を回避する条件も提示してもらいましたから。ただしそれが、関係修復の最後通告となります』

 奥さんが提示した離婚回避の条件は、奥さんが「吉国太陽不動産」の社長および代表取締役に就任し、京三さんは実権のない会長になることだった。さらに、しばらくは同居せず、別居状態の現状維持とすることだった。

『どうでしょうか。離婚しますか、それとも回避しますか』
『まじかー、まじかー、かんべんしてくれよー』

 と吉国京三さんは、なんどもおなじことを言っては、頭を抱えていた。結局、吉国さんは、自らのスケベ心が仇となり、そしてドツボにはまり、すべての条件を承諾していた。いやはや、おそろしやである。

 おれは、ふっと思っていた。吉国さんのスケベは、ぜったい再発するだろうと。

 とりあえず一件落着となり、これで萌絵ちゃんにも良い報告ができることになった。ついでに、おれは吉国さんに仲介謝礼として、シャッター街にある「吉国太陽不動産」が所有する物件を無料で貸してくれるように交渉していた。

「保証金なし」「利益が出たら賃料は払う」という条件だった。おれには、ある目論見があったのだ。それはかなりの確率で当たるはずだった。

嘉永6年 江戸日本橋


引用:https://mag.japaaan.com/archives/38971

江戸日本橋界隈は、約25万人の集積地

 嘉永6年(1853年)、浦賀にアメリカのペリー提督率いる黒船が来航する。

 江戸日本橋に海産物の大店「伊豆屋」があった。間口は15間あり、大店の表側には道路に沿って幅1間の「店下(みせした)」と呼ばれる庇下通りがあった。

 それにそって「踏込(ふみこみ)」という狭い土間があり、大店内部は仕切りのない大空間「みせ」となっていて、奥には商品などを保管する蔵がいくつもあった。

 番頭以下、百数十人の奉公人が厳格な規律の下で働いていた。大店の町屋には原則として居住空間はなかったが、住み込みの奉公人たちは2階に寝泊まりした。

 主人たちの住居は表通りの町屋とは縁と中庭でつながり、入り口は表通りから路地に入ったところに設けられていた。

大店
江戸中期、「現金掛値なし」の店前売りを打ち出した新興商人が台頭する。彼らは本町通りや日本橋通りに巨大な店舗を構え、大店の立ちならぶ景観が形成された。大規模な屋敷間口を示すものが多く、屋敷が裏の町境を越えるものなどがあった。


Machiya_in_Nihonbashi_in_Edo_period.png

『与三郎ー、与三郎ー、どこにいるんだい』大店の町屋とは別棟にある母屋でおかみさんが大きな声で息子を呼んでいた。

『おかみさん、どうしたんですか』番頭が駆け寄ってきて訊いた。
『まただよ、与三郎に借金取りがきたんだよ』別の使用人がやってきて、与三郎は裏口から出て行ったと伝えた。

『どうしようもないね。もう勘当するしかないかしらね』

 与三郎といわれたこの大店の息子は、放蕩息子として近隣でも有名な存在だった。大店の息子らしく、光沢のある上質な着物を身につけた洒落者だった。

 金があれば花街などで散財し、金がなくなれば家に帰って無心した。やがて、その金遣いに愛想をつかした両親は、あまり金を与えないようになった。

 それでも根っからの放蕩息子は、遊ぶ金ほしさに高利貸しから金を調達しては、また花街などに繰り出していた。与三郎には、当然返すあてはない。そして高利貸しは、実家の大店へと借金取りにいくのであった。

『よっ、与三郎のだんな、どこにいくんだい』呉服屋の奉公人から声がかかる。
『なに、おれのいくところは一つしかない、この世の天国さ』

 日本橋の大通りを歩いていると、大店の奉公人たちから声がかかる。放蕩息子といわれているが、奉公人たちには一種の憧れの対象でもあった。なにしろ、大金持ちの大店の息子であり、しかもかなりの男前だったからだ。

 江戸時代の日本橋は、様々な物資が運び込まれる一大マーケットだった。一般的には、日本橋といえば呉服屋のイメージがあるが、実は魚河岸をはじめ無数の河岸が開かれていた。そしてむちゃくちゃに人が集まる場所だった。

 魚河岸は関東大震災で築地に移転するまで、日本橋が中心だった。他には、米河岸や鰹河岸などがあった。鰹河岸にあった有名な大店に、伊勢谷伊兵衛というのがあった。これが、現在の「にんべん」である。
 
 日本橋界隈に広げると、塩河岸、京橋=大根河岸(青物市場)、竹河岸(日用品素材)、神田=薪河岸(燃料)などがあった。

 他にも地方の地名を冠した河岸があった。鎌倉河岸(材木・石材)、行徳河岸(野菜・魚介類)、木更津河岸(江戸と木更津の独占的輸送)など。

 とにかく、江戸時代の日本橋界隈は、人でごった返す人混みの名所だった。浮世絵などに描かれた日本橋には、いかに人馬の往来が多かったかが見て取れる。

京都へいこう

『与三郎のだんなー』と呼ばれて後ろを振り向くと、粋な着流しの優男がいた。
『なんだ、重蔵じゃないか』

『ずいぶんと急いでるけど、どこにゆくんだい』
『別にどこという目的はねーんだ。借金取りから逃げてんのさ』

 重蔵は、浮世絵の絵師であり、雅号は歌川国重といった。有名な歌川派に属し、主に美人画を描いていた。

『な、重よ、これも何かの縁だ。ちょっといっぺいやるかい』
『あー、いいね、ついでにうどんでも食うかな』

 日本橋の大通りから脇道に入り、ぐるぐると界隈を歩くと、居酒屋が集まる場所にでた。そのなかの一軒の縄のれんをくぐり店の中へ入った。

 江戸時代の居酒屋は、朝から営業していた。したがって、町は日中から酔っ払いだらけだったといわれる。

 与三郎は、酒とそばを、国重こと重蔵は酒とうどんを頼んだ。

『なー、与三郎のだんなは京都へいったことあるかい』
『京都だー、ねーな。そんな機会もなかったしな』
『なー、ものは相談だが、おれと京都へいかねーか』

 重蔵がいうには、京都の花柳界には、芸妓と舞妓がいる。そこで江戸とは趣の違う、京都らしい風情ある芸妓と舞妓の美人画を描いてみたいそうだ。

 それを版元(浮世絵の出版社)に提案したところ、興味を示して京都へいくなら支度金を出すということになった、というわけだ。

『んー、京都か。芸妓と舞妓か、いきたいねー。けど無理だ』
『なんでよ、京都いこうよ』
『しかしなー、先立つものがねーんだ』

 与三郎は、放蕩三昧がたたって勘当目前だという話をした。

『そうか、与三郎のだんならしいやね、でもなにか手があるはずだ』

 重蔵は、そういうとしばらく考えてから、はたとひざを打つと『そうだ、こんなのはどうだろうか』と与三郎に語り出した。

『お遍路にゆくんだ、与三郎さん。これまでの放蕩三昧を反省し心を入れ替えます、と両親に言うんだ。きっと支度金を出してくれるだろう』
『お遍路にねー、おいらがほんとにゆくのかー』
『ちがうよ、いくのは、京都だよー』

 それから間もなく、与三郎と重蔵は、京都へと旅立っていった。

シャッター街の売れ残り市

驚安の殿堂

 おれは、吉国萌絵ちゃんの両親の離婚を食い止めた謝礼として、シャッター街のなかの店舗を無料で借りることにした。

 さて、そこでなにをするか、アパレルの売れ残り在庫品が会社には大量にある。ネットだけでは砂漠に水のごとしだ。そこで驚安価格で販売するリアル店を運営するのだ。ネットとリアルで稼ぎは倍増という寸法だ。

 さっそく、望月社長にアイデアを提言した。商品の在庫置場にもなるし、という一石二鳥の提案に、すぐにゴーサインがでた。

 そして、プロジェクトチームが編成された。おれがプロジェクトリーダー、ITオタクのヤスこと安田くん、そしてバイク女子のもえたんこと萌絵ちゃんだ。

 これを成功させて、ついでにシャッター街に商店街復活ののろしを上げてやるぞ。むふふ、これでおれはまちおこしの恩人になるかもしれん。

 そうだ、そうだ。きっと街の有名人になるかもしれない。そのあとはマスコミの取材も殺到だ。むふふ、おれは有名人だ。などと、とらぬ狸の皮算用ならぬ、妄想をしていたが、いや、まてよ…なにか忘れていることがある。

 あー、そうだった、おれは逃亡者だった。目立ったら居所がばれて、すぐに追い込みをかけられる。いやー、それはいやだー。首がなくなるしー。

 おれはもう一度考え方を落ち着いて整理してみた、そして、とにかく目立たないことを第一に心がけることに決めた。いやはや。

つづく

おまけ 物語の背景について

<当該小説の舞台背景>
木更津港は古くから開けた港であった。
中世には房総から鎌倉に上る渡船場として栄える。
江戸時代に入ると、徳川家康から、1614年(慶長19年)
大坂の陣で活躍した木更津の水夫への報奨として、
江戸・木更津間での渡船営業権などの特権が与えられた。
これにより江戸との往来が頻繁となり、
木更津が上総・安房の海上輸送の玄関口として繁栄していった。

小説創作:cragycloud
参考文献:江戸はスゴイ(PHP新書)、ウィキペディアほか

ゑひもせす(ちくま文庫)杉浦日向子

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