その欲望は果てしなく、どこまでも
4000年の歴史を踏襲する中国共産党
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http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM2903Z_Q4A530C1000000/
新聞をはじめ各メディアには、毎日のように中国のあーした、こーしたという事柄が尽きることなく掲載されている。中国は、とにかく次々と新しい話題を提供してくれる。それはいくら載せても切りがないくらいである。どんだけ世界に話題を提供すれば満足するのか、ある意味で底知れない不気味さである。いやはや、さすが4000年の歴史を誇る中国である、と関心する他はない。
しかし、関心するばかりではいけない。なにしろ中国は、いま方向性を失って訳の分からないところに向かっている。もっとも中国はそうは思っていない。いったい何をしでかすか、危なくてしょうがない。たぶん、世界の主要国および周辺国は何処も同じ思いではないか。ただ、表立って言わないだけである。違うか。
ベトナム、フィリピン、そして日本もあまりにも理不尽なその行いに重い腰を上げつつある。だまってばかりじゃ、何の解決にもなりゃしないという訳である。
それは至極当然、当たり前のことである。馬鹿にするのも程が有るというものである。しかし、この機に至っても話せば分かるというノーテンキな有識者と呼ばれる人たちがいる。俗に左巻きとも言われるが、その人たちはいったい何を目的とするのか。ともかく、国には主権というものがあるはずである。それを侵されても、なお話せば分かると言うのは、如何に。何とも不思議で仕方がない。
前置きが長くなったが、本題である。それは「中国の夢」というものである。これは、現在の中共のトップが唱えるいわばビジョンのようなものである。別の意味では公約とも取れるものらしい。
「中国の夢」とは何か。それは欧米に侵略される前に存在した王朝時代の大中国の復活を意味するようである。もっとも、いまの中国に血を継承する王朝はないから、それは共産党が変わって行うのである。そこでは大帝国の復活と領土の奪還?がセットとなっている。いやはや恐ろしいことこの上ないが、如何に。
かつての王朝とやってることは変わらない
三国志のファンが、いまでもたくさんいるように、中国の歴史には大変興味深いものがある。その人気の秘密は、人間の根源の部分があからさまに描かれているからではないか、と想像する。中国の、とくに王朝の興亡史には権謀渦巻く世界がこれでもかと描かれている。どこまでが事実かしらないが、欲望の赴くままに果てなく突き進む、それが中国王朝の世界である。
現在の中国が、現国家体制を樹立したのは1949年である。それから、紆余曲折を経て半世紀を超えて現在に至っている。王朝は「清」を最後にして、共産党一党独裁へと変わった。しかし、血統に支えられた王朝支配ではないが、いまの中国もその根底に流れる構造はあまり変わっていない。王朝が共産党に変わっただけであり、その支配層は血統(革命第一世代に繋がる血筋)が重用視される。
現在の中国共産党のトップも親が革命期の活動家幹部であったのは、良く知られたことである。最近、話題となる共産党幹部たちによる莫大な収賄事情も、王朝時代の宦官たちのやりたい放題となんら変わる事がない。王朝時代は、王とその周辺の一部の特権者に富が集積された。現在の中国もそれは変わらない。
その代表例が、「薄煕来(はくきらい)」という共産幹部であった。かつて重慶市のトップに君臨し、現代の毛沢東になろうと画策した野心と欲望のかたまりのような男である。この人物もまた親が革命世代の幹部であった。
薄煕来は、その欲望があまりに強かったために妻や側近とともに逮捕された。そして、共産党中央から抹殺されたのである。薄の行き過ぎたやりたい放題に国民のたがが外れて、国内が混乱するのを防ぐ狙いであった。また共産党幹部は、自らに災いが及ばないために、スケープゴートとして差し出したのである。
薄は、莫大な収賄による蓄財をしていた。しかし、それが逮捕の理由ではない、何故ならばそんなことは共産党幹部はいずれも大なり小なりしていたからである。違法な蓄財で逮捕すれば、その他大勢の共産幹部も逮捕しなければならなくなる。したがって、別の罪状で逮捕できるまでいわば泳がされていた。
そして機は到来した。2012年、重慶市の書記である薄煕来は、重大な党規律違反を犯したとして逮捕された。その後は数々の罪状が追加され追求された。もはや二度と立ち上がれないほどにである。
薄煕来という、中国の欲望そのもの
薄煕来(1947年〜)は、毛沢東とともに革命を戦った薄一波の3男として北京で生まれた。学歴は、中学卒(日本の高校)である。しかし、後にコネを使い高学歴を手にしている。1966年、文化大革命勃発と同時に紅衛兵として活動する。しかも、血統を活かしたエリート紅衛兵として活動の先頭に立ち、既存勢力(反革命分子)に対し暴力の限りを尽くした。実の父親の薄一波さえその暴力の対象となったそうである。
ちなみに、「文化大革命」(1966〜1976)とは、建国の立役者である毛沢東が仕掛けた権力闘争であった。国家の立て直しを図る当時の支配層に対し、毛沢東を中心とする異分子が毛沢東語録を武器に既存勢力の一掃を図ったものであった。しかし、これが不毛なイデオロギー闘争であったことは歴史が証明している。この「文化大革命」によって中国は大きな痛手を被った。
エリート紅衛兵だった薄煕来は、父親(共産幹部)にも容赦なく暴力をふるい肋骨を何本か折ったそうである。この薄の性格であるが、極悪非道をいとわない性格であったらしい。実際、文革時代には何人か殺したと言われている。父親(共産幹部)が革命を戦ったという血統からくる傲慢、そして容赦のない暴力的体質を有していたようだ。
しかし、父親の薄一波はこれを見込みのあるやつだと思い込んだ。文化大革命が終焉し、改革開放の時代になると文革で失脚していた薄一波も復権を果たした。そして、息子の薄煕来を要職に就ける画策をはじめた。かれは、実力者の鄧小平などと並び党の中央幹部になっていた。したがって、その力は絶大なものがあった。
薄煕来は、学歴も父親の力で手に入れて(北京大学に1年在籍し学位・学士取得?)、いよいよ共産党での出世に向けて活動し始める。
薄煕来、地方の共産幹部になる
1984年、薄煕来はこれまでいた共産党中央弁公庁から、遼寧省の金県という場所に派遣される。何故かと言えば、かれは離婚問題がこじれて元妻から執拗に突き上げを食らっていたのである。そこで仕方なく逃げる様に北京から遠ざかったという訳であった。かれは色事も熱心であったそうである。権力欲と色欲はどうやら切っても切れないセットのようである。
遼寧省・金県では副書記というポストに就いた。しかし、かれはいわば中央の権力者である父親のコネを使ってポストに就いた。したがって、同僚や上司には評判がよくなかった。その傲岸不遜な態度も災いしたようだ。仕方なくかれは、おなじはぐれものである暴力団に近づく。そして盟友の契りを交わし、いざというときの仕組みを造り上げた。
それは不動産開発であった。土地に絡むもめ事は暴力団にまかせ、開発する業者からはリベートをもらうという古典的な手法であった。それでもかれは強引な手法で利権を手にいれていく。それを手助けしたのが、妻(2番目)であり、また弁護士でもあった谷開来であった。
薄煕来は、この遼寧省・金県時代に当時の共産党ナンバー2の国務院総理を呼び込むためにゴルフ場とホテルを建設している。当然、公金を使ってである。これは中国では当たり前のようである。
その後、薄煕来は1988年に大連市の党宣伝部部長に昇進する。さらにいくつか役職を経た後、1993年に大連市長(ナンバー2、トップは書記)となった。ちなみに、中国では県より市の方が大きい。県は、日本で言う区と同じような扱いである。
大連市長となった薄煕来は、大連の香港化を促進していく。ようするに不動産開発による地域活性化である。しかし、ここでも自らの利権を確保することを忘れていない。いや、それが目的か。大連の不動産開発でかれは莫大な資産を蓄財する。以後はこの手法が、ますます巧妙化して海外に資産を隠すために、妻はイギリスやニューヨークに事務所を開設している。
<参考:共産官僚の土地収賄の背景>
・土地は国家のもの
・しかし、土地だけではお金にならない。
・地皮(土地の使用権)を打ってお金が入る。
・お金が入るときに「利潤」「賄賂」を頂く。それよって民衆を立ち退かせビルを建てるお膳立てをする。
・ビルに多くの外国企業などが入れば、高く売りつける事ができる。儲かるから開発業者が押し寄せてくる。リベートを高くする。
・地価は上がり、庶民には手が届かないが関係者は潤う。
薄煕来、重慶市のトップに、傍若無人を極める
1989年、天安門事件発生する。元総書記の死去を弔うことからはじまり、それが民主化を求めるうねりとなって暴動に発展した。あまりに有名な暴動であり、中国ではその詳細はいまでも封印されている。
薄煕来は、大連市長のあと共産党中央(北京)にもどる。しかも、商務部長という要職である。しかし、それもつかの間であった2007年にかれの頼みの綱であった父親・薄一波が死去した。これを機会と捉えた元総書記・江択民は、薄煕来を重慶に配置換えする画策を施した。とにかくかれは嫌われていたようだ。
共産党中央の幹部チャイナナインにあと一歩と迫りながら、また地方に飛ばされたのである。しかし、薄煕来はここからもうひと勝負をかける。
重慶市の党書記(トップ)となったことで、これまでのような上司はいないに等しい状況となった。それをいいことにかれはやりたい放題をはじめた。これまでの総決算であるかのように。
1)唱紅歌キャンペーン 個人崇拝のプロパガンダ
中国では文革以後、個人崇拝が禁止された。それは二度と文革のようなことを起こさないためであった。この「唱紅歌」とは革命の歌である。それを歌おうというキャンペーンを繰り広げたのである。それも強制的にである。そして、個人崇拝=薄煕来を毛沢東になぞらえたのである。これは、党中央が大変危険と感じたのは言うまでもないことであった。
2)打黒運動
これは黒社会=暴力団の排除を目的とした活動であった。しかし、その実態は政敵やその配下を取り除き、自分に忠実な部下を配置すること。それに伴って企業家やその関係者を逮捕し、その資産を強奪することにあった。強奪した資産は、人気取りの政策の資金とされたそうである。その過程では、多くの人が死刑に処されたそうである。
3)司法の私物化
暴力団の摘発や企業家の資産強奪に都合がいいように、司法の現場を自分のいいなりになる人材に変えてしまった。これで例え訴えられても重慶では、薄煕来に立ち向かうものなどいなくなった。公安、検察、警察が一体となって不当逮捕、財産没収、死刑の宣告などを行った。
4)武装警察の増強
いざというときの勢力として武装警察の力を増強するとともに、それを動かす人材には薄煕来に忠実な部下を配置した。と同時に旧体制の幹部たちは粛清された。
5)成都軍区幹部を買収
成都軍区は薄煕来の父親が造り上げたといわれる軍団である。そこの幹部達に賄賂をくばり手なずけていた。これもいざというときのためであった。いざとは、中央にクーデターを起こすことを意味していた。
6)メディアの買収
メディアも薄煕来のものとなっていた。かれの意に添わなければ、逮捕されてしまうか。職場を追われるかのどちらかであった。実際、かれの真実を伝えた記者は逮捕され牢獄に入れられた。
7)盗聴・スパイ
重慶市は当然であるが、党中央に対しても電話の盗聴等のスパイ活動をしていた。また、市民には密告活動を奨励していた。なお、党中央への盗聴はばれていた。さすが共産党中央は伊達ではない。
8)法輪功の弾圧
法輪功とは気功を行う集団だったと思う。宗教のようでそうではない。そんな集団が危険視された。江択民によって弾圧が決められて、その後は逮捕、投獄、拷問などが行われたそうである。いまの中国でもまだそれは続いている。薄煕来は、これを積極的にやっていたと言われる。なかには、臓器を生きたまま取り出されたなんて話も出ている。その実態はまだ闇のなかである。
以上、薄煕来が重慶市で党中央を無視して、やりたい放題をしていた内容である。詳細は省いたので分かりにくい部分があったと思われます。とにかく、これが現代の中国で行われていたことである。そこには、何か底知れない不気味さが漂っている。何を目的にそこまでするかである。
権力を握るために、人はそこまで非人間的になれるのか。どうやらなれるらしい。そういう人間もいるというのは間違いないようである。いやはやである。
参考文献:「チャイナジャッジ」遠藤誉/著、ほか
<チャイナ・ナイン>
中国の権力中枢、チャイナ・ナイン!
その9人をめぐる、あまりに人間臭く、あまりに壮大な実録ドラマ。
中国政府のシンクタンクである中国社会科学院の客員教授を歴任し、
今なお政府高官との太いパイフを持つ遠藤氏が、
大国の「現在進行中」の社会と政治の真相を、政権中枢の奥深く、
さらにその奥まで切り込んで描いた完全ノンフィクション。
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