日本が終わり、そして新しい日本がはじまった日
■この日を、いつまでも忘れることはない
1945年8月15日(昭和20年)、日本はポツダム宣言(日本への降伏要求の最終宣言)を無条件で受諾し第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)は終結した。
映画「日本のいちばん長い日(1967年)」は、昭和天皇が8月15日の正午にラジオを通じて国民に戦争の終結と日本の敗戦を告げるまでの24時間の経過を描いたものである。そして明治維新後、負け知らずの日本軍部ははじめて敗戦した。
映画の中では、すでに原爆が長崎と広島に投下されて日本の敗戦は誰の目にも明らかな状況下でありながら、ポツダム宣言の受諾に抵抗する軍部、とくに陸軍の最後の足掻きが濃密に描かれている。また、当時の政府首脳陣が、軍部に対してなんの権限も持っていなかったのが見てとれる。
そして、陸軍の佐官クラスを中心とした軍部の一部では徹底抗戦を諦めず、クーデターを起こす動きがあった。
最終的には、昭和天皇の御聖断により無条件降伏は受託された。それは明治維新後に築かれてきた日本という国の崩壊でもあった。そして、おなじく新しい日本の第一歩となった。しかし、それはいまだから言えることであり、当時の日本人の不安と焦燥は、限りなく深いものではなかったかと想像する。
映画の中には、民間人はほとんど出てくることはない。登場するのは、政府首脳及び官僚たち、軍部首脳と参謀本部の軍人たち、そして天皇と従者などである。しかし、そこには日本が戦争に突入した要因が凝縮されて見えるようだ。
当時の主導権は、明らかに政府にはなく軍部にあった。そして、その軍部が何を考えていたか。それは、映画の中で佐官クラスの参謀が「玉砕覚悟の抵抗」を上官に訴えることに表れている。そこでは一般民間人の人権など屁とも思っていない。一般人がいくら犠牲になろうが、そんなことはおかまいなしだ。
国家のために一般民間人が犠牲になるのは当たり前ということだろう。しかしはたして、その先に何があるのか。国民あってこその国家であるはずなのに、国家の体制だけを優先していた。それが当時の軍部だったと思われる。
1967年製作版
日本が見た未来とは何か
■変調した日本の姿がそこにある
当時の日本は、何故あのような戦争に向かわざるを得なかったか。それを語るには、豊富な知識と長い文章が必要となるだろう。当方は、そこまでの知識はないので、残念ながらここでは控えます。あしからず。
戦前の昭和に関する書籍をいくつか読んでみると、そこにはどこか変調していく日本の姿が描かれています。いつから変になったかといえば、満州事変を経て5.15事件辺りから急激に何かがおかしくなったようだ。
1931年(昭和6年)、陸軍は満州事変を勃発させて、日本が中国に嫌が応もなく深く入り込んでいく状況を作りだした。そして1932年(昭和7年)、満州建国宣言をし実質的に日本の統括地とした。
1933年(昭和8年)、国際連盟は満州にリットン調査団を送り込んだ。中国から提訴されたのだ。国際連盟では日本陸軍の行動は不法であると可決した。これに対し日本は国際連盟を脱退した。
おなじ年の5月15日、海軍の士官と陸軍の士官候補生、それに農村有志が加わり国家改造を求めて決起行動を起こした。首相官邸を襲って犬養首相を殺害した。これを機に日本の議会政治は機能不全となっていく、そして軍部主導の軍国主義が本格化していった。
また、教育制度も大きく変調していく。国定教科書は前面改訂されて、とくに修身の教科書は神国日本を打ち出していた。小学1年では「ススメ ススメ ヘイタイススメ」、小学2年では「テンノウヘイカハ ワガ大日本テイコクヲオオサメニナル タツトイオンオカタデアラセラレマス」などと繰り返し読まされた。
いわゆる思想教育がはじまっていた。「日本人は皆臣民であるから天皇に忠孝を就くし、命を捧げるのが最高の道徳である」と刷り込んでいた。これは、別の意味では、一般人は何も考えるな、余分なことはするなと言っているに等しい。
軍部と文部省は一心同体となっていた。この教えは、やがては「特攻隊」や「虜囚辱めを受けず」などの玉砕思考へと繋がっていく。
このときの時代背景は、1929年のニューヨーク株式大暴落を受けて世界的な不況となっていた。日本でもおなじく、その波は押し寄せていた。ドイツではヒトラー、イタリアにはムッソリーニが台頭していた。
ドイツやイタリアではその責任の所在がはっきりしていた。ヒトラーがいなければ、あそこまでドイツはナチスに加担しなかっただろう。イタリアもムッソリーニによって牽引されていた。
ところが日本では、誰に責任があったのかその所在が曖昧なままにある。東条英機とすることもできるが、実は東条は所詮陸軍の単なるエリートでしかなかった。ヒトラーやムッソリーニのようなカリスマがあった訳ではない。日本陸軍という組織のなかで選ばれた人材に過ぎなかった。
この責任の所在の曖昧さは、いまにも続く日本ならではの伝統芸?になっているようだ。それは「みんなで渡れば怖くない」という有名なギャグを地でゆくが如しである。軍部という組織が鵺となり、魑魅魍魎となって跋扈していた。それが当時の日本の姿ではないかと思われる。
鵺=つかみどころがなくて、正体のはっきりしない人物・物事。
魑魅魍魎=いろいろな化け物、妖怪変化。
日本の軍部は、「八紘一宇」とか「五族共和」など、いろいろとスローガンを持っていたが、その先に何があるのか具体的には見えてこない。どうやら日本の軍部には将来設計がなかったとしか思えない。だからこそ、中国奥地まで入り込んで身動きもままならなくなっている。それは、他の戦線もおなじくであった。
グランドデザインもなく、単なる思い込みとファンタジーで戦争を起こしたのは、まさに国民には悲劇としか言い様がない。いまだから言える事であるが、軍部は1945年8月15日に向けて、まっしぐらに突き進んでいた。
そのあげく、ぎりぎりの瀬戸際まで抵抗したのであった。それが「日本のいちばん長い日」に描かれた内容と言ってもいいだろう。
2015年製作版 8月8日全国公開
■日本のいちばん長い日 概要(1967年製作)
昭和天皇や閣僚たちが御前会議において降伏を決定した1945年(昭和20年)8月14日の正午から宮城事件、そして国民に対してラジオ(日本放送協会)の玉音放送を通じてポツダム宣言の受諾を知らせる8月15日正午までの24時間を描いている。(ウィキペディアより)
監督:岡本喜八
脚本:橋本忍
原作:大宅壮一「日本のいちばん長い日」(実際は、半藤一利氏が書いている)
出演者:三船敏郎(陸軍大臣、阿南惟幾)
:加山雄三
:黒沢年男、他
音楽:佐藤勝
製作/配給:東宝
公開:1967年8月3日
上映時間:157分
半藤一利の「日本のいちばん長い日/決定版」を原作に映画化された作品が、戦後70年にあたる2015年8月8日に全国公開される。ちなみに原作は1967年とおなじである。大宅壮一著となっているのは営業上の理由だそうです。半藤一利氏は、当時文芸春秋の社員だった。大宅壮一氏は、序文だけ書いているとか。
参考文献:昭和史/半藤一利、昭和史七つの謎/保坂正康、日本のいちばん長い日/半藤一利、ウィキペディア、他
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