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映画|ザ・ビートルズ EIGHT DAYS A WEEK 世界一有名なバンドの軌跡

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音楽世界を革新したバンド、ザ・ビートルズ

世界一有名なバンドの全盛期の裏側で起こったできごと

 ビートルズが、全世界で一番有名なバンドであるのは、まちがいない。がしかし、その全盛期から、はや約半世紀が経とうとしている。

 いまでも熱心な多くのファンがいる一方で、現在の若者たちにとっては、いまさら感があるのは否めない。現在の若者(10代〜30代前半)たちには、ずーと昔のできごとであり、実感が伴わないのは仕方がない。

ザ・ビートルズ EIGHT DAYS A WEEK
 ビートルズの全盛期を捉えた映画「EIGHT DAYS A WEEK」は、実感が伴わない若者たちが、その革新性、偉大さを知るには打ってつけの映画である。

 なぜ、ビートルズが世界で一番有名なバンドとなったか。それはビートルズが音楽世界のなかで、過去に例のない大きなマーケットを創出したからに他ならない。

 ビートルズ以前にも、偉大な音楽家はいた。その代表格はエルビス・プレスリーであるのは言うまでもない。プレスリーの音楽の背景にあったR&Bの先駆者たち(チャック・ベリー、リトル・リチャード)も忘れられない。

 エルビスにも超えられなかった壁があった。それはオリジナル性である。ビートルズ以前の音楽家は、作詞や作曲という創作と、歌手や演奏とがはっきり分かれていた。いわば、音楽の分業制である。(一概にはいえないが)

 実は、ビートルズもデビュー前は、R&Bやロックンロールのカバーを演奏していた。(初期のアルバムにはカバー曲が収録されている)

唯一無二のオリジナル性、大衆化、公演の巨大化
 ビートルズは、デビュー後にはどんどんオリジナル曲を創作し発表していく。メンバーが作詞や作曲をし、そして歌い演奏した。そうすることで、著作権(印税)収入という莫大な収益を得ることにつながった。

 このビートルズのスタイルは、その後の音楽世界に大きな影響を与えた。唯一無二であることが、いかに大事かを広く知らしめた。

 ビートルズ初期のオリジナル性は、ルーツであるR&Bや、ロックンロールをビートルズ流に解釈し直したところにある。(個人的見解である)そして、中期、後期となると完全な独自性を創出し、新しい音楽の道を開拓した。

 R&Bも、ロックンロールも当時の若者たち(50年代)に流行ったが、それでも大衆化するまでには至らなかった。それをビートルズは、音楽の裾野を広げて全世界に一大ムーブメントを起こしてしまった。

 とはいえ、それはあくまで結果であり、ビートルズのメンバーでさえ、それを狙ったわけではなかった。ある意味では偶然の産物だったともいえる。

 とにかく、過去の音楽界の成功事例を大きく凌駕したのは間違いなかった。

 そして、もう一つ革新的だったことがある。それは、公演の規模である。ビートルズはファンが多すぎて、一般の劇場では収まりきらなかった。そこでアメリカでは、数万人が入る野球場を借り切って公演することにした。

 この巨大施設で音楽公演を行うことは、その後のロールモデルとなった。さらには、世界ツアーを行ったのも、ビートルズが最初だそうだ。

<ビートルズ3つの偉大さ>
唯一無二の音楽性=オリジナルを創作するアーティスト性
音楽の大衆化=幅広いファン層の獲得に成功
音楽公演の巨大化=音楽興行の収益拡大

 なお、ビートルズが既存の音楽世界を革新できたのは、メンバー達だけによるものではなかったのは言うまでもない。

 マネージャーのブライアン・エプスタインはマーケティング面で、プロデューサーのジョージ・マーティンは音楽性の面で多大な貢献をしている。

ザ・ビートルズ プロフィール

<主なメンバー>
ジョン・レノン(John Lennon) 1940年 – 1980年(40歳没)

作詞、作曲、ボーカル、リズムギター

ポール・マッカートニー(Paul McCartney) 1942年6月18日(77歳)
作詞、作曲、ボーカル、ベース

ジョージ・ハリスン(George Harrison) 1943年 – 2001年(58歳没)
作詞、作曲、ボーカル、リードギター

リンゴ・スター(Ringo Starr) 1940年7月7日(79歳)
ボーカル、ドラム

<活動期間>
1962年10月5日にレコードデビュー。1970年4月10日に事実上解散。

 なお、観客の前で演奏するのは、1966年8月サンフランシスコ公演が最後となった。それ以後の活動はスタジオが中心となっている。

<補足事項>
 1966年6月30日-7月2日、武道館で日本公演が行われた。当時、ビートルズ来日に反対する活動が、右翼によって行われた。また、保守的な一部知識人たちはメディアを通じて批判的な論調を繰り広げていた。

Beatles – Tell Me Why

 1962年10月、英国にて「ラブ・ミー・ドゥ」でデビューする。1963年、セカンドシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」が、英国で大ヒットする。

 その後「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」などのシングルが、連続してチャート1位を獲得する。初アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」も1位となるなど、英国では人気が爆発していた。

 一方、アメリカではヒットが出せていなかった。大手レコード会社がビートルズとの契約に消極的だったからだ。しかし、メディアがビートルズを取り上げ、ラジオがレコードをかけ始めると、様相は一変した。

 ようやくキャピトルが契約し、そして発売した初のシングル「抱きしめたい」は、アメリカでもあっという間に大ヒットした。

 1964年4月には、チャート5位までを独占した。同年、1ヶ月に24都市を回る全米ツアーが開催された。コンサート会場は、数万人を収容する野球場だった。

The Beatles – A Hard Day’s Night

 1964年、ザ・ビートルズ初の主演映画「ハード・デイズ・ナイト」が公開された。この映画は、アメリカでの失敗を恐れて低予算&モノクロで制作されたが、ビートルズのアメリカでの成功を背景に大ヒットとなった。

 当時の邦題は「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」であったが、現在では「ハード・デイズ・ナイト」に改められている。

 この映画のなかでは、人気沸騰中の当時の様子をそのまま描いたようなシーンが数多く観られる、実際ある意味では過酷な環境にあったようである。

The Beatles – Don’t Let Me Down

 1966年3月、ジョンが英国でのインタビューで、ビートルズとキリストを比較する発言をする。(ビートルズはキリストより有名だ)

 この発言の一部(上記参照)がアメリカのマスコミに転載され、大きな反発を受けた。これがきっかけとなり(その前からという説もあり)、ビートルズは観客の前から遠ざかっていった。

 具体的には、1966年8月のサンフランシスコ公演を最後に観客の前で演奏するのを止めてしまった。一説では、すでに1965年頃には、メンバー達はコンサート活動に疲れていたといわれる。

サージェント・ペパーズから解散まで
 公演活動をやめたビートルズは、スタジオにこもり音楽性の向上を目指していく。その結果生まれたのが、1967年発売された「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」というアルバムだった。

 このアルバムは、過去に例のない音楽性を有していて、聴くものを驚かせた。ビートルズが、現在まで革新性あるバンドとして認知されている、その大きな要因となったアルバムといえるだろう。

 サージェント・ペパーズ以後もビートルズの革新性は衰えることなく、「ホワイトアルバム」「アビーロード」などをリリースしていく。

 しかし、やがてメンバー間に溝が広がり、バンドとしての活動が成り立たなくなってきた。そして、1970年にポールが脱退を表明し実質解散となった。

 ビートルズは、1962年10月5日のレコードデビューから、1970年4月10日に解散するまで、わずか約8年で偉大な功績を音楽世界に残した。これは、まさに奇跡的なできごと、と言っても過言ではないだろう。

 上の動画「Don’t Let Me Down」は、解散間近のビートルズが1966年以来となる観客を前に演奏したものである。(アップル本社ビル屋上)映画「EIGHT DAYS A WEEK」では、ラストシーンとなっている。

 この演奏は、もはや伝説となり、ファンならば涙無くしては観られない演奏シーンとなった。(ジョンとジョージは、すでに逝去した)

画像引用:ウィキペディア
参考:映画「EIGHT DAYS A WEEK」、ウィキペディアほか
 
ザ・ビートルズ EIGHT DAYS A WEEK
 世界で最も有名なバンド、ザ・ビートルズ。彼らは今では一般的になった全世界ツアー公演やスタジアムでの公演を初めて行った。

 その革新的な活動期間(公演期間)は実質約3年間、約350公演をこなした。本作ではそのうち63年に始まった15か国90都市166公演に及ぶツアーの様子、そして4人が最後に観客の前で演奏した66年8月29日の公演までの全盛期を記録した貴重なフィルムを元に、再構成したドキュメンタリー映画である。

ザ・ビートルズ・モノ・ボックス(アンコール・プレス)

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