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70年代|日本語ロック誕生からシティポップまで

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日本の高度経済成長は頂点を迎え、そして終わりを告げた

「恋は流星」1976年

70年代は、万博で幕を開けた
1970年に開催された大阪万博は、日本の高度経済成長の頂点を極めた盛大な祭典となった。がしかし、その後の70年代は、ニクソンショック(71年)、二度にわたるオイルショック(73年、79年)により、低成長時代を余儀なくされた。

そして世の中には、60年代とは一転して、なんとなくしらけた風が吹き荒れていた。とくに若者世代は、「しらけ世代」と呼称されていた。(世相などに関心が薄く、熱くなりきれず、冷めた傍観者のように振る舞う世代のこと)

その一方、若者文化には新しい潮流が生まれていた。「アンアン」「ノンノ」の2大女性誌が誕生し、女性のファッション、ライフスタイル、そして意識・価値観に多大な影響を与えた。その影響下で海外ブランドが大きく注目された。

70年代初頭の音楽シーンでは、洋楽ロックが流行っていた。ロックは洋楽(英語歌詞)でなくては認められない、そんな風潮さえあった。またロックのジャンルも多様な広がりを見せて、海外アーティストの公演も多く開催された。

洋楽ロック全盛の日本の音楽シーンに、ある変化が現れた。それは、シンガー&ソングライターの登場だった。よしだたくろう、井上陽水などである。主にフォークシンガーが中心であったが、その後は音楽シーン全体に広がった。

矢沢永吉、荒井由美、サザンオールスターズ、その他多くのアーティストが、職業作詞家や作曲家のお仕着せではなく、オリジナルでデビューしている。

90年代に日本のポップスは、JPOPと呼称されるが、その種は70年代に撒かれていた、と言っても過言ではない。70年代にオリジナルでデビューした音楽アーティストたちの多くは、その後も長く活動を続けて現在に至っている。

そのような70年代の音楽シーンのなかで、際立ってエポックメイキングな出来事がふたつ起きている。そのひとつは、70年代初頭の洋楽ロック全盛期に、意図的に日本語によるロックを作り上げようとした「はっぴーえんど」である。

そして、もうひとつは音楽のグルーブ感を排除して無機質な音源を多用し新しい音楽を作り上げようとした「YMO/イエローマジックオーケストラ」である。

「はっぴーえんど」「YMO」は、ともに同時代のアーティストに比べればヒットの数も多くはないが、次代のミュージシャン、音楽シーンに与えた影響は、同時代のどのグループよりも絶大である。それはきっと間違いないだろう。

引用:70年代|はっぴいえんど、YMO そして音楽は時代を超えてゆく

日本語ロック誕生とはっぴいえんど

「風をあつめて」1970年

はっぴーえんどとは
「はっぴーえんど」は、現在では伝説のバンドといわれている。なんたって、1970年に結成されたバンドである。とにかくものすごいむかーしである。この「はっぴーえんど」のどこがすごいのか、なにが次代の音楽シーンに影響を与えたのか。

それを端的にいえば、「日本語によるロックを成立させた」ことにある。いまでこそ当たり前であるが、70年代初頭では、ロックは英語でやるのが当然である、でなければロックではない、という風潮にあったそうだ。

当時のロックファンたちは日本語ロック(またグループサウンズかよと)に反感が根強く、認めようとしなかったようだ。

その様な環境の中で日本語ロックにこだわり、試行錯誤しながらそれを定着化させた功績については、現在では多くの業界人や音楽ファンが認めている。

このバンドに参加したメンバーがとにかくすごい。(いまだからそう思う)ただし、70年当時はほとんど無名だったのは言うまでもないが…。

細野晴臣氏は、その後YMOで旋風を巻き起こし、大滝詠一氏は、個人アルバムを大ヒットさせた、松本隆氏は、松田聖子をはじめ歌謡曲の作詞家としてヒットメーカーとなり、鈴木茂氏も多くのバンドや個人の音楽活動で活躍した。

「はっぴーえんど」は、1972年12月31日に解散した。

ニューミュージックとユーミン

「あの日にかえりたい」1975年

ニューミュージックとは
1970年代から1980年代にかけて流行した、日本のポピュラー音楽の総称的なジャンルです。フォークソングから発展し、当時の歌謡曲とは異なる、新しいスタイルを志向する音楽として登場しました。ちなみに、2025年現在では、ほぼ死語となっています。

主な特徴
職業作家による分業制が主流だった歌謡曲に対し、シンガーソングライターが中心となり、アーティスト自身が作詞・作曲を行う「自作自演」スタイルが基本でした。

フォークソングが持つメッセージ性や、飾らない表現を受け継ぎつつ、より幅広い音楽性を取り入れ、楽曲重視の傾向が強まりました。

多様な音楽性があり、フォーク、ロック、ポップス、ジャズ、R&Bなど、様々なジャンルの要素が融合されています。

荒井由美(松任谷由美、ユーミン)
1972年にシングル「返事はいらない」で荒井由実としてデビューしました。1976年に音楽プロデューサーの松任谷正隆さんと結婚し、以降は松任谷由実として活動し現在に至ります。

荒井由実名義の主な代表曲には、「ひこうき雲」「やさしさに包まれたなら」「瞳を閉じて」「ルージュの伝言」「卒業写真」「あの日にかえりたい」などがあります。これらの楽曲は、その後の日本の音楽シーンに大きな影響を与え、「ニュー・ミュージック」というジャンルを確立し、後の「J-POP」の源流の一つとも言われています。

よしだたくろうと井上陽水

「結婚しようよ」1972年

吉田拓郎と井上陽水は、日本のフォークソング、ニューミュージック界を代表するシンガーソングライターであり、1970年代を中心に日本の音楽シーンを牽引してきました。

吉田拓郎
自らの感情をストレートに歌い上げる「こうなんだと前面に言い放っている感じ」(井上陽水評)の楽曲が多く、若者の共感を呼びました。「結婚しようよ」でフォークソングをメジャーに押し上げた存在と言えます。

井上陽水
より内省的で独特の言葉選びやメロディセンスが特徴的で、音楽性を深く追求しました。「氷の世界」が初のミリオンセラーアルバムとなるなど、その芸術性の高さも評価されています。

J-POPの礎を築く
異なる音楽性を持つ二人ですが、それぞれがフォークソングの枠を超え、今日のJ-POPへと繋がる道を切り開いたと評価されています。

「氷の世界」1973年

キャロル ジャパニーズ・ロックンロール・リバイバル

「ファンキー・モンキー・ベイビー」1972年

キャロル (CAROL)
1970年代に活動した日本のロックバンドです。矢沢永吉、ジョニー大倉らがメンバーで、1972年に結成され、1975年に解散しました。「ファンキー・モンキー・ベイビー」などのヒット曲があり、革ジャンにリーゼントというスタイルで、当時の若者文化に大きな影響を与えました。

キャロルの音楽は、50年代ロックンロールを源流としつつ、オリジナルであり、かつ日本語で歌うところが特徴でした。キャロル以後、同様のジャンルに「横浜銀蝿」「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」などがあります。

「I LOVE YOU OK」1976年

ティンパンアレイとシュガーベイブ

「ティン・パン・アレー」と「シュガー・ベイブ」は、どちらも1970年代の日本の音楽シーンにおいて、後の「シティ・ポップ」の源流となるような、洗練されたポップ・ミュージックを生み出した重要なバンドです。両者には密接な関係がありました。

ティン・パン・アレー (Tin Pan Alley)
1973年に結成された日本のバンドで、主にスタジオ・ミュージシャンによるプロジェクトとしての色彩が強いグループです。

主要メンバー
細野晴臣(ベース、ボーカル、ギター、キーボード)
鈴木茂(ギター、ボーカル)
林立夫(ドラムス)
松任谷正隆(キーボード)
後に佐藤博なども参加しました。

主な特徴
彼らは「ロック・バンド」というよりも、「音楽プロデュース・チーム」として活動することが多く、自身のアルバムリリース(『キャラメル・ママ』『TIN PAN ALLEY 2』など)の他に、荒井由実(松任谷由実)、小坂忠、雪村いづみ、いしだあゆみなど、多くのアーティストのレコーディングやプロデュースを手がけました。彼らの演奏は、後の日本のポップスに大きな影響を与え、洗練された都会的なサウンドを確立しました。

シュガー・ベイブ (SUGAR BABE)
1973年から1976年まで活動していた日本のポップスバンドです。

主要メンバー
山下達郎(ボーカル、ギター、キーボード、コーラス)
大貫妙子(ボーカル、キーボード、コーラス)
村松邦男(ギター、ボーカル、コーラス)
寺尾次郎(ベース、コーラス)
上原裕(ドラムス)

主な特徴
大瀧詠一が設立した「ナイアガラ・レーベル」の第一弾として、1975年に唯一のアルバム『SONGS』を発表しました。当時のフォークやロックが主流だった中で、彼らの生み出す爽やかで都会的なポップスは、セールス的には苦戦しましたが、後の世代に絶大な影響を与え、「シティ・ポップ」の金字塔とされています。「DOWN TOWN」や「SHOW」などの名曲は、現在でも多くの人に親しまれています。

シティポップの夜明け

「September」1979年、「プラスティック・ラブ」1984年リリース、シティポップ代表曲なのであえて掲載しました。あしからず

シティポップとは
1970年代後半から1980年代にかけて日本で流行した、都会的で洗練された雰囲気を持つポップミュージックを指します。明確な音楽的定義があるわけではなく、その「ムード」や「イメージ」によって語られることが多いジャンルとなっています。70年代当時は、まだシティポップとは言われていなかった。

「真夜中のドア〜Stay With Me」1979年

主な特徴
都会的なテーマが主体となり、歌詞やサウンドに、都会の情景、リゾート地でのバカンス、恋愛などを描いたものが多く見られます。

洋楽志向が強く反映され、当時流行していたアメリカのAOR(Adult-Oriented Rock)、フュージョン、ソウル、ディスコ、R&Bなどの影響を強く受けており、都会的で洗練されたサウンドが特徴です。

シンガーソングライターが中心であり、山下達郎、竹内まりや、大貫妙子、角松敏生、吉田美奈子などが代表的なアーティストとして挙げられます。彼らの多くが作詞・作曲も手掛けるシンガーソングライターでした。

編曲や演奏に一流のスタジオミュージシャンが起用され、緻密でクオリティの高いサウンドが追求されました。
シンセサイザーなどのデジタル音楽機器が多用され、当時の最先端の技術が取り入れられました。

現代における再評価として、2010年代後半から、海外のネットユーザーを中心に「Plastic Love」(竹内まりや)などの楽曲が再評価され、世界的なブームとなっています。

「夢で逢えたら」1976年

「シンプルラブ」1976年

ニューウェーブ、テクノポップ、YMO

「テクノポリス」1979年

イエロー・マジック・オーケストラ
YMO、これまた懐かしいと感じる方も多いと思います。ちなみにYMOは略称であり、正式には「イエロー・マジック・オーケストラ」といいます。

70年代、叙情的なフォークや、感情をぶちまけるロックなどが巷に溢れていましたが、70年代後半を境に奇妙な雰囲気を漂わす無機質な音楽を、度々耳にするようになりました。トキオ〜、トキオ〜と言葉を繰り返したあと、キャッチーなメロディーがまるで溢れる水のように流れてきました。

それが「テクノポリス」や、「ライディーン」など、YMOの音楽でした。とくに「ライディーン」は当時の小学生たちにも大受けで、小学校の運動会などでは行進曲としても使われていたそうです。

当時小学生だった電気グルーブの石野卓球さんは、毎日のようにYMOを聴いていたところ、その様子に母親が堪りかねて「YMO禁止令」を出したとか。

このYMOの音楽性は、ニューウェーブとか、テクノポップといわれました。そして、同時に新しい音楽の時代の到来を告げていました。

引用:70年代|はっぴいえんど、YMO そして音楽は時代を超えてゆく
https://cragycloud.com/blog-entry-1095.html
引用:ウィキペディア、AIジェミニなど

追記:
ストリートラジオ「エンゼルラヂオ…音楽とともに、時代と流行を顧みる」
のためのシナリオ素案として書かれたものです!

おまけ|70年大阪万博会場

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