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■時代と流行|マフィアを近代化した男 ラッキー・ルチアーノの生涯

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ナンバーワンのギャングスター

 マフィアという犯罪組織といえば、その発祥はイタリアである。しかし、一般的にはアメリカのイタリア系で構成されたマフィアを思い浮かべるはずだ。

 それは、なによりも1920年代のアル・カポネとその一党による、派手で暴力的な犯罪行為が世間に浸透しているからだろう。また、その様子を描いたテレビや映画(アンタッチャブルなど)などの影響があると思われる。

 しかし、カポネはイタリア系であってもアメリカマフィアの本流ではなかった。なぜかといえば、カポネはナポリ出身だったからだ。イタリア系マフィアの本流は、シチリア島出身者を中心に構成されていた。

 したがって、カポネはシカゴの大ボスであったが、マフィアグループの入会にあたりシチリア島出身の代理人を立てざるを得なかった。

 1920年〜30年代というマフィア台頭の時代にあって、表向きにはカポネが目立っていたが、実はその裏でマフィアのあり方を根底から覆すことになる重要人物が静かに力を蓄えていた。それがチャーリー・(ラッキー)ルチアーノだった。

 そして、マフィアはルチアーノによって、やがて新時代を迎えることになった。今日、マフィアは多様化し、またグローバル化しているが、その種もルチアーノが蒔いていたと言っても過言ではない。

ルチアーノ、マフィア界に新風を吹き込む

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 アメリカマフィアには、ふたつの系統がある。「マーノ・ネーラ」と「コーザノストラ」である。「マーノ・ネーラ」は、マフィアの起源ともいわれ、いわば古い因習にしばられた伝統的な犯罪組織である。一方、「コーザ・ノストラ」は、古い因習を解き放ち、時代にあった組織性と合理性を兼ね備えたものだ。

 マフィア組織の古い「マーノ・ネーラ」体質を解体し、「コーザ・ノストラ」に移行させた最大の功労者が、ルチアーノだったといわれる。現在に続く、アメリカマフィアの隆盛は、ここに始まったといえる。

シチリアからニューヨークへ

 ルチアーノは、1897年シチリア島内陸部のレルカーナという村で生まれた。本名は、サルヴァトーレ・ルカーニア。9歳の時に、一家でアメリカに移住し、ニューヨークのロウアー・イーストサイド(スラム街)に住みついた。

 その後、ルチアーノは不良の仲間入りをしていた。その頃、アル・カポネと出会っていた。のちにカポネがシカゴに移る際には餞別を出したといわれる。

 おなじく、ルチアーノの生涯を通じて重要なパートナーとなったマイヤー・ランスキーとも出会っている。やがて仲間とともに、ギャング団を結成した。盗みやゆすり、そして麻薬の密売にも手を出していた。

 1916年、麻薬の密売で警察に捕まり少年院に入れられている。やがて少年院から出たルチアーノは、本格的に犯罪へと手を染めていった。

ギャング団を結成する

 ルチアーノは、ギャング団の強化に乗り出していた。マイヤー・ランスキーを仲間に引き入れて、その友人のバクジーことベンジャミン・シーゲルも仲間入りした。さらに、友好関係にあったフランク・コステロも加わった。

 ランスキーは、度胸もあり、なにより頭脳が明晰だった。シーゲルは暴力性が際立っていたといわれる。ちなみに、シーゲルはのちにラスベガスにフラミンゴホテルを建設し、ラスベガスのカジノの先駆者となっている。

 ルチアーノの若手ギャング団は有力組織となっていた。当時のルチアーノは19歳〜20歳、ランスキーは15歳、シーゲルは11歳であったといわれる。

 やがて、ルチアーノの若手ギャング団は、ニューヨークマフィアの大ボス・マッセリーアに認められて、その配下に入ることになった。そして、ルチアーノはマンハッタン地区を任せられて、ナンバー2へと上り詰めていく。

 この頃、シチリア島出身だけで固める体制はもう古いと提案し承諾を得ると、カラブリア州出身のアルバート・アナスタシア、カンパーニャ州出身のジョー・アドニス、ヴィト・ジェノヴェーゼなど、のちの大物マフィアを仲間に入れた。

マフィアの古い体制を粛清する

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 当時、ニューヨークには大ボスが二人いた。ルチアーノのボスであるマッセリーア、そしてもうひとりのボス、マランツアーノだった。あるとき、ルチアーノは敵対する組織につかまり、激しいリンチを受けてしまった。

 そのとき、ルチアーノは死んだと思われた。しかし、運良く九死に一生を得たルチアーノは、仲間たちからラッキーと呼ばれるようになった。その変わり、頰にはナイフによる生々しい傷跡が生涯残ることになってしまったが。このときから、ラッキー・ルチアーノといわれるようになった。

 大ボスふたりの争いが激しくなっていくなかで、ルチアーノはマフィアの古い体質に嫌気がさしていた。ボスのなかのボスになるという発想は、もはや時代遅れだと考えて密かにある計画を練り始めていた。

 ルチアーノは、ボスであるマッセリーアを裏切り、敵対するマランツアーノに寝返っていた。1931年4月15日、マッセリーアをレストランに誘い出し、そこでしばらく歓談したあと、ルチアーノはトイレに行った。

 そのあとすぐに、殺し屋が入ってきてマッセリーアに銃弾を浴びせていた。大ボスはあっけなく始末されてしまった。トイレからもどったルチアーノは、何食わぬ顔で警察の到着を待ち、そして知らぬ存ぜぬで通した。

 次は、ボスのなかのボスとなったマランツアーノの番だった。ルチアーノはこの機に古い体質の大ボスをすべて始末する覚悟をしていた。

 マッセリーア殺害からしばらく経った1931年9月10日、マランツアーノは警察官に変装した4人の殺し屋に襲われていた。ナイフで滅多刺しにされたマランツアーノは、それでも激しく抵抗したが、最後は銃弾によってトドメを刺された。

 これでニューヨークの大ボスはふたりとも始末されてしまった。時をおなじくして、アメリカ各地の古い体質のボスは、すべて始末されたといわれる。その数は約40人にも及んだといわれる。

 このマフィア旧体制が粛清された日は、13世紀にシチリア人が支配者のフランス人に反乱を起こした歴史にちなんで「シチリア晩餐の夜」と呼ばれている。

 なお、のちにルチアーノは「シチリア晩餐の夜」について、そんなことはなかったと語っている。やったとは言えないので、それは当然かもしれないが。

マフィアをビジネス化する

 マフィアの古い体制である「マーノ・ネーラ」は一掃された。それを主導したルチアーノは、ボスのなかのボスの座には就こうとしなかった。それは、独裁的な大ボスの存在は、もはや百害あって一利なしと判断したからに違いない。

 ひとりの大ボスが君臨し統治するという前近代性から、より合理的な体制にしようとしていた。各地区のボスには、強い権限が与えられて、他地区からは侵害できないようにした。いわば、連合制によるマフィアの誕生であった。

 新しいマフィア連合は、「コーザ・ノストラ」と名付けられた。各地区のボスから選ばれた数人の有力ボスによって合議制で物事が決められていくことになった。それは、マフィア内で抗争するより、協力し合う方が合理的だとするルチアーノや新しいマフィアたちの考えが反映されたものだった。

 要するに相互利益、今風にいえばウイン・ウインの関係を目標とした。

 イタリア系マフィアと対立していたユダヤ系やアイルランド系などとは、提携関係を結んで共存の道を用意した。さらに政治家や有力者との関係を深めて保護と利権という一挙両得を獲得していた。

 ルチアーノは、組織犯罪者として天才的だったといえる。ボスのなかのボスになるよりも、マフィアの仲間それぞれが協力し合って、共存共栄を図りながら収益性を高めることの方が何倍も有益であると看破していたからだ。

 この連合制マフィア誕生以後、アメリカマフィアはGMより大きな稼ぎがあるといわれるようになっていた。しかし、ルチアーノが当局に目をつけられて、やがて投獄されたあたりから、またマフィア同士の抗争がはじまってしまった。

 ルチアーノは、ボスのなかのボスにはならなかったが、連合制マフィアの生みの親として一定の重しにはなっていた。その重しがはずれたとき、マフィアの古い体質がふたたび現れてきた。それは、ある意味では犯罪集団ならではの必然だったかもしれない。

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引用:http://img.yaplog.jp/img/18/pc/y/a/m/yamu98/76/76071_large.jpg

<ルチアーノと配下の大物マフィア>
・フランク・コステロ(ルチアーノ海外追放後のボス)
・ヴィト・ジェノヴェーゼ(副ボス→代理ボス→海外へ→帰国後ボスに)
・アルバート・アナスタシア
・ジョー・アドニス
(ユダヤ系)
・マイヤー・ランスキー
・ベンジャミン・シーゲル

<ルチアーノとマフィアの犯罪>
麻薬取引、密造酒の製造と販売、労働組合の支配と搾取、闇賭博、高利貸し、みかじめ料の取り立て、恐喝、殺人、売春など多岐にわたる。
ルチアーノ、アメリカを追放される

 1936年、ルチアーノは「公共の敵ナンバーワン」とされて逮捕される。

 いったんは釈放されるもすぐに再逮捕されて、強制売春の容疑で有罪となり禁固30年〜50年の刑を宣告される。ルチアーノは、「私は多くの不法行為に関与したが強制売春だけはやっていない」と無実を訴えていた。

 検察側は、ルチアーノの本命の犯罪(殺人もある)で証拠固めができず、苦肉の策で強制売春容疑をでっちあげたといわれている。

 刑務所に収監されたルチアーノは、配下のコステロやランスキーに指示を出して組織の運営をしていた。また刑務所のなかでも特別な権威を持ち、いたって優雅に過ごしていたといわれる。

 その後、第二次世界大戦(1939〜1945)が勃発し、軍は諜報活動にマフィアの協力を要請していた。ルチアーノはそれに協力する見返りに刑務所の移転(ニューヨークに近い場所)という優遇措置を得ている。

 さらに、連合国がシチリア上陸作戦を敢行したとき、軍から再度要請を受けてイタリアのマフィアと連携し協力体制を築いた。ドイツが降伏したのち恩赦を求める嘆願書を提出した。連合国への協力が認められて釈放される。

 ただし、アメリカ市民権を獲得していなかったことから、イタリアに送還されることになってしまった。1946年2月、船でニューヨーク港を離れた。これ以降、アメリカの地を二度と踏むことはなかった。

 イタリアに強制送還されたルチアーノは、シチリアではなくナポリに居を構えた。スカラ座のバレリーナを愛人にして優雅な生活をしていたといわれる。

 表向きは裕福な実業家を装っていたが、その裏では麻薬のルートづくりに熱心に取り組んでいた。シチリアからアメリカに渡る麻薬ルートは、その後のアメリカマフィアの活動に大いに貢献したといわれている。

 また、ナポリの犯罪組織カモッラとシチリアのマフィアのあいだで、相互利益になる取引を仲介したりしている。

 ルチアーノはどこにいても、犯罪の仕掛け人であるようだ。

 1962年1月16日、ルチアーノの自伝映画製作者を迎えるためにナポリ空港に出かけたとき、心臓発作を起こしてそのまま死去した。数多くの殺人に関わり、また仲間も殺害されたが、本人は病気で亡くなった。

 しかし、一方では自伝映画製作は、マフィアの掟に反するとして反対していた勢力もあり、暗殺されたのではないかともいわれている。

映画「コーザ・ノストラ」あらすじ

 1946年、アメリカ司法当局はマフィアに大きなプレゼントをした。

 ニューヨーク暗黒街のボス、シシリー出身のイタリア系アメリカ人チャールズ・ラッキー・ルチアーノ(ジャン・マリア・ボロンテ)を釈放、生まれた故郷イタリアに送還したのだ。

 1936年、ルチアーノは殺人、売春、麻薬密売の容疑で、トーマス・E・デューイ検事の告発により50年の禁固刑に処せられながら、僅か9年間の服役の後、ニューヨーク知事に昇進していた同じデューイ自身の手で、戦時中の合衆国軍隊に対する特別功労という名目で恩赦になっていた。

 麻薬捜査局の長官アンスリンガー(エドモンド・オブライエン)と局員のチャールズ・シラグサ(チャールズ・シラグサ)は、これに反発、ルチアーノ徹底追求に乗りだしていた。(あらすじ、ムービーウォーカーより)

コーザ・ノストラ/原題Lucky Luciano(1973年公開)
脚本・監督:フランチェスコ・ロージ

参考文献:
・マフィア「その神話と現実」(講談社現代新書)
・シチリア・マフィアの世界(講談社学術文庫)、ほか

マフィア―その神話と現実 (講談社現代新書)
マフィア―その神話と現実 (講談社現代新書)

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