パスワードは一万年愛す。タイムレスなスタイルは、過去も未来も時を超えてゆく!

■時代と流行|原宿 セントラルアパート

この記事は約4分で読めます。


原宿セントラルアパート 昭和54年 東京おとなガレージより

原宿のかつてのランドマーク!

前回、スタイリストの高橋靖子の著作に少し触れたので、その繋がりという事で原宿セントラルアパートの隆盛期の一端をご紹介したい。「どこにあるの?」というあなたに教えましょう。95年頃(96年解体)まで原宿ラフォーレの真ん前にありました。

リーマンショック前はギャップの基幹店があったと思うが、現在は東急プラザとなり欧米系アパレルがメインテナントで入っています。

ある時期から、そこはカタカナ職業人の巣窟と化した

原宿セントラルアパート(55年頃竣工)は米軍関係者の住居として開発されたが、ある時期から住居部分を一般に事務所として貸し出すようになった。1960年代後半ぐらいからカタカナ職業人がここに事務所を置き始めていた。そして、そこから幾多の伝説が始まっていく。

ここに事務所を設けたのはデザイナー、コピーライター、カメラマン、イラストレーター、編集者などである。70年代に入るとほとんどの部屋が、かれらクリエイターと称する輩の巣となったようだ。当時のクリエイターや文化人のあいだでは、ここに事務所を設けることが一種のステータスと化したのであった。

いまは無き「話の特集」という雑誌の編集部もここにあった。1階にあったレオンという喫茶店には、後に著名となるクリエイターが頻繁に訪れていたそうである。そのなかには後に売れっ子コピーライターとなった糸井重里氏もいた。

現在ではロートルの仲間入りであるが、当時は名だたる有名クリエイターの数々がここにはいたのである。そして、ここに出入りしたクリエイターたちは、後に数々の伝説を残すことになった。しかし、それらの出来事については個人的には知る由もなかった。

また、セントラルアパート地下には小さなブティックが軒を連ねた原宿プラザがあった。そこでは、まだ若く、金もないファッションデザイナーの卵たちが群雄割拠し才能を競っていた。それが、独特のエネルギーを発していたのは云うまでもない。

当方がここに出入りしたのは、80年代に入ってからであり、その頃にはすでに有名なクリエイターはここを出てより高級な場所に移動していた。したがって、そんなに華やかな雰囲気ではなく、どちらかといえばみすぼらしい古ぼけたビルでしかなかった。ここに事務所を構えているクリエイターもかつての1流から2流以下へと変わっていた。


ティーズ原宿

やがて地上げと魑魅魍魎が跋扈していく

80年代後半から90年代初頭にかけて、原宿セントラルアパートは地上げの格好の舞台となった。なんせ立地が飛び抜けて良かったのだ。当初は八代コーポレーションとかいう得体の知れない不動産屋が地上げを行っていた。

その後、これにセゾングループが絡んで益々ややこしい様相となっていく。

そして転売を繰り返すことによって、この場所の価格は300億から、そして600億と跳ね上がっていた。最終的にここを購入したのは、東武電鉄グループであった。そして竹中工務店と組んで開発されたのが、ギャップがメインテナントとして入った「ティーズ原宿」というビルであった。

その後それは取り壊されて、2012年、新しく「東急プラザ」となって現在に至る。

原宿セントラルアパートの隆盛期を書こうと思ったが、あまりよく知らないのである。この場所が一番輝いていた時期に、事務所を設けていた浅井慎平の著作によると、伊丹十三、タモリ、寺山修司、渥美清、植草甚一、等々の有名文化人がこの場所を訪れたとある。

当時のセントラルアパートは、特定の文化人同士が交流する場でもあったらしい。


上/東急プラザ 下/スタイリスト高橋靖子氏

セントラルアパートの写真:東京おとなガレージ/昭和54年より
http://blogs.yahoo.co.jp/de_eb_zzzz/30960364.html

以下は、原宿、表参道に関連した書籍!

コメント