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■時代と流行|華麗な三菱創業家の建築遺産 岩崎家本邸、関東閣ほか

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三菱創業家に断絶の危機せまる

三菱財閥を創業した岩崎弥太郎とその一族

 三菱といえば、明治期に三井、住友と共に日本の経済界に絶大な影響力を持つ企業群を形成し、1945年の日本の敗戦まで財閥を形成していた。創業したのは幕末までは土佐藩の一藩士だった「岩崎彌太郎」であった。

 岩崎彌太郎は、幕末期の土佐藩の資産の一部を譲り受けて、それを糧にして事業を拡大していった。たしか、海運でのし上がったはずである。そこから、事業の拡張を図り、財閥の一角を占めるまでになっていく。

 三井や住友と違う点は、新興勢力だったところである。歴史ある三井や住友と違い、いわばベンチャーとして成り上がったといえる。明治期の富国強兵や、西洋に追いつけ起こせのムードの中で、イケイケだったのが三菱であったと思われる。

 三菱財閥は、創業者の岩崎彌太郎の功績が大きいことは言うまでもないが、実弟である岩崎彌之助(のちに二代目)の調整能力が、事業拡大には欠かせなかったようだ。彌太郎の拡大主義を、実弟・弥之助がうまく着地点を見出していた。現在、三菱が丸の内に君臨するのも彌之助の功績といわれる。

 三菱創業期の岩崎兄弟は、いまでいう、CEO(最高経営責任者)とCOO(執行責任者)の関係にあったと思われるがいかに。なおこれは、あまり確かではないので真に受けないでください。

 そんな元・三菱財閥の創業家に断絶の危機が迫っているそうである。

三菱財閥を創業した岩崎家が断絶の危機に

三菱創業家六代目の岩崎寛弥氏には跡取りがおらず、弥之助の分家筋にあたる岩崎透氏を養子に迎えたが、2008年に養子縁組を解消した。寛弥氏は逝去し、岩崎家は断絶の危機を迎えている。

◆三菱創業家の系譜

創業者 岩崎彌太郎 1835-1885 
二代目 岩崎彌之助(彌太郎の弟)1851-1908
三代目 岩崎久彌(彌太郎の息子)1865-1955
四代目 岩崎小彌太(彌之助の息子)1879-1945

 三菱財閥は、四代目当主である岩崎小彌太の時代に解体を余儀なくされた。それは、日本が太平洋戦争に敗戦したことにあった。米国占領軍は、戦争責任を企業集団にも課したからだった。岩崎小彌太は、熱海の別邸に三菱各社の重役を呼んで、事後処理を指示したあと、しばらくして亡くなっている。

 岩崎小彌太には、子供がいなかった。五代目当主には岩崎久彌の息子がなる予定だった。しかし、五代目にはすでに実権は失われていた。

 ちなみに、太平洋戦争時に勇名を馳せた零戦を作っていたのは、三菱であった。

三菱創業家の建築遺産を還りみる

岩崎久彌本邸

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 創業者である岩崎彌太郎の邸宅は、現在残されていないそうである。創業者の息子である三代目の久彌は、上野からほど近い場所に本邸を構えた。これは現在でも残されて、いまでは庭園として一般に解放されている。

 建築設計は、明治期の建築界に多大な影響を与えたジョサイア・コンドルが担当している。コンドルは、三菱お抱えと言ってもいいほどに三菱関係の建築に多く携わっている。西洋の古典様式を使いながら、どことなく日本的に見えるのは風土の成せる技か、それは知る由もないがいかに。

 ジャコビアン様式というものらしいが、なんと木造である。しかし、見た目にも麗しく格調が漂うコンドルの初期の傑作といわれている。

 とにかく、三菱財閥の当主に相応しい威風堂々の建物といえる。しかし、この洋館には、久彌をはじめ家族は住んではいなくて、和風の別館を日常の住まいとしていた。洋館は対外的な社交や仕事関係で使われていたとか。

 ようするに、この威風堂々の建物は、三菱の迎賓館という役割を果たしていた。とくに海外の顧客などのおもてなしに重宝されたと思われる。

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<岩崎久彌本邸>

竣工:明治29年
建築設計:ジョサイア・コンドル
場所:東京都文京区湯島
構造:木造造り二階建
現在の名称:旧岩崎邸庭園洋館

岩崎彌之助本邸 関東閣

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 三菱創業家の二代目となった岩崎彌之助は、品川にほど近い高輪の地に邸宅を構えた。建築設計は、やはりジョサイア・コンドルである。地所の前の持ち主は、伊藤博文といわれている。当時の高輪(御殿山)には、三井家に関係する家も多数あり、彌之助は負けじと壮大な建物を目指したといわれる。

 その建物は豪華絢爛というよりは、威風堂々の重厚な趣の洋館となっている。彌之助は、この建物を建てるにあたって、相当な力を注いだといわれている。しかし、洋館が完成する頃には、彌之助は病に倒れてしまった。

 そして完成した洋館には、ベッドとともに運ばれた。それから、しばらくして亡くなっている。彌之助は、注力を傾けた自邸にあまり住むことができなかった。その後、この建物は息子の小彌太に引き継がれたが、小彌太はバカでかい建物を嫌って、この地を離れて別の場所に邸宅を構えた。

 その後、彌之助本邸は小彌太により三菱に寄贈され、「関東閣」となり現在に至っている。なお、関東閣には、三菱関係者しか入れない。

<岩崎彌之助本邸>

竣工:明治41年
建築設計:ジョサイア・コンドル
場所:東京都港区
構造:煉瓦造り2階建(一部3階)
現在の名称:三菱開東閣

岩崎小彌太 熱海別邸

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 三菱財閥の最後の当主となった四代目の岩崎小彌太は、創業者の彌太郎や父親の彌之助とは違って、比較的質素な生活を好んだといわれる。父親が建てた豪壮な高輪の邸宅を出て、鳥居坂にこじんまりとした和風の邸宅を構えている。

 そんな小彌太が、力を注いで建てたのが熱海の別邸である。英国に留学した小彌太らしく、英国風のカントリーハウスのような趣となっている。

 英国の歴史様式であるチューダー様式を中心としている。一見すると木造のようだが、実際はコンクリート造りとなっている。擬似的にコンクリートを加工して木造のように見せているらしい。

 なんでも、コンクリを打つ際に使われるパネルに木目を施して、そこにコンクリを流したといわれている。小彌太は、この別邸を建てるにあたり、山ひとつとさらに周囲の山も取得している。

 したがって、別邸の周囲は鬱蒼とした森に囲まれている。別邸にたどり着くには、長い専用の道路を通り、トンネルを抜けて、さらに竹林に囲まれた道路をいくとようやくたどり着くそうである。

 別邸にたどり着くまでも演出が施されていたようである。小彌太はとくに竹林がお気に入りだったとか。小彌太は、邸内の趣に若干違和感を覚えて、直そうとしたが戦争が激しくなってきて諦めたといわれる。

 小彌太が亡くなったあとは、妻が使用人たちと住んでいたが、現在では三菱グループが維持管理をしている。

<岩崎小彌太 熱海別邸>

竣工:昭和11年
建築設計:曾禰中条建築事務所
場所:静岡県熱海市
構造:鉄筋コンクリート造2階建地下一階
現在の名称:熱海陽和洞

六義園

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 六義園は、岩崎家が造り上げたものではないが、その資産によって守られて現在に残されている。元禄8年(1695年)、五代将軍・徳川綱吉より下屋敷として与えられ た駒込の地に、柳沢吉保が自ら設計、指揮し、平坦な武蔵野の一隅に池を掘り、山を築き、7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水庭園」を造り上げた。

 明治期になり荒廃していた庭園を岩崎彌太郎が買い取り、家族や社員の慰安の場として開放した。昭和になり東京市(当時)に寄贈されている。

●開園年月日:昭和13年10月16日(一般開放)
●開園面積:87,809.41平方メートル(平成27年7月1日現在)
場所:東京都文京区本駒込
庭園に行こう/六義園

参考文献:歴史遺産「日本の洋館」(講談社)、ほか
    :三菱の歴史(三菱グループのサイト)

冒頭写真:岩崎彌之助本邸 関東閣

岩崎弥太郎と三菱四代 (幻冬舎新書)

歴史遺産 日本の洋館〈第1巻〉明治篇(1)
ここは日本、知られざる華麗・繊細な世界。第一人者の建築家と写真家の三十年を越える共同取材の集大成! 個人邸として建築された名邸の写真とそこに住んだ建築主の物語、間取図、現況など貴重情報収録!

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