パスワードは一万年愛す。タイムレスなスタイルは、過去も未来も時を超えてゆく!

■時代と流行|近代建築カタログ[大連]アカシアの花咲く理想都市

この記事は約4分で読めます。


図説 満鉄:「満洲」の巨人 (ふくろうの本)
日本の国家予算の半分規模の資本金、鉄道総延長一万キロ。社員40万人を擁して「満洲」に君臨した、巨大コンツェルン「満鉄」の全貌!!

ロシアと日本の理想郷としての都市

アカシアの花咲く理想都市

だいれん【大連】
中国遼寧省の工業・港湾都市。遼東半島の南端に位置する。1898年にロシアが租借、東洋経営の根拠地として建設し、ダルニーと命名。日露戦争後は日本の租借地となり大連と改称。第二次大戦後、旅順と合併して旅大市となったが、1981年に再び大連と改称。人口、行政区148万、都市圏462万(1982)。ターリエン。

大連は、ご存知のように日露戦争に勝利した日本が、ロシアから手に入れた中国(当時は清)の租借地のひとつである。大連という都市名を付けたのは、日本であるようだ。(上記参照)この「満洲」の玄関である大連において、アカシアの花咲く理想都市を目指して、都市計画を押し進めた。それが以下に紹介する建築群である。

それらの多くは、南満州鉄道、略して満鉄という国策会社により整備・開発されたものである。満鉄は、半官半民の会社であり当時の国家予算の半分ほどの規模の資本金を要していたと云われている。

<参考サイト及び引用>
エキサイト+ANAによる中国特集「大連〜20世紀近代建築の旅」より
文:原口純子 写真:佐渡多真子
http://media.excite.co.jp/ism/extra/dalian/index.html

この当時の、国家の命運をかけた意気込みが伝わってくような壮大さである。なお、ここでは歴史の紹介ではなく、あくまで、情熱を傾けて建造された建築群の紹介が目的であることを断っておきます。


大連鉄路分局 旧・南満州鉄道本社本館

日露戦争の勝利後、中国東北地方における鉄道経営を主な目的として、1906年に設立された南満洲鉄道株式会社(略称・満鉄)は、1907年、本社を東京から大連に移転、1908年には帝政ロシアが建設中だったこの建物を改修、本社ビルとして使用を開始した。1945年、連合軍総司令部の解散命令を受けるまで満鉄の中枢部であり続けた空間。


中国銀行遼寧省分行 旧・横浜正金銀行大連支店

1909年竣工の銀行ビル。明治時代の日本を代表する建築家、妻木頼黄と満鉄きっての天才と評された建築技師・太田毅の共同設計。バロック様式のドームをのせた本格的な洋風建築。広場をはさんで向かい合う壮麗な銀行ビルと旧ヤマトホテルは、都市の空間を華やかに演出した。


大連賓館 旧・大連大和ホテル

鉄道事業のほかに、ホテル経営、リゾート開発など多様な事業を手がけた満鉄の直営ホテルで、1914年竣工。4年を費やしたした大工事だった。設計者には諸説があるが、満鉄の技師、太田毅の説が有力。地上4階、地下1階、客室数115室の当時としては巨大な規模。満鉄建築の頂点といわれる空間はいまも大連指折りのホテルであり続けている。


大連駅 旧・満鉄大連駅

満鉄は創業期の仮設建築の大連駅舎を使い続け、1924年には新駅舎を建築する目的で大規模なコンペを行ったが、財政悪化のため断念。37年、ようやくこの新駅舎を完成させた。設計は満鉄社員の太田宗一郎。出発は2階から入口へ、到着は地下から出口へと、乗降客の流れを立体的に分離した、当時としては斬新な設計だった。


大連港務局 旧・大連埠頭事務所

埠頭から船客待合所を抜けて街へ向かう乗客たちが、最初に目にするのは、待合所の向かいの埠頭事務所だった。6年の月日を費やした大建築は1926年竣工。レンガ造り7階建ての建物は当時、大連一の高層建築であり、大連港に船が入ると、まず目に入る建物だった。現在、夜はライトアップされ、港に華を添えている。

エキサイト+ANAによる中国特集「大連〜20世紀近代建築の旅」では、他にも大連に関する情報があります。興味のある方は、ぜひ上記に貼付けたURLからご覧になってください。

コメント