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■時代と流行|1970年日本万国博覧会 高度経済成長は極まり夢の未来が開かれた

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戦後復興を経て、日本の次代の夢がひらく

1970年、日本万国博覧会が開かれた

 1970年、日本では1964年の東京オリンピックに続いて、戦後復興著しい日本を世界に認知させる大イベントが開かれた。それが「日本万国博覧会」の開催だった。通称、大阪万博といわれ、その入場者数は6400万人をこえた。

 当時の日本は高度経済成長の真っただ中にあり、いわばその頂点として日本万国博覧会は開かれた。いま振り返れば、その開催時期はすでに高度経済成長の後半にあたり、日本の次代への希望と夢を象徴していた。

 その後、1973年の第一次オイルショックを機に日本は混迷の中に突入していく。日本万国博覧会は、ある意味では日本が最後の繁栄を謳歌した盛大なお祭りだったといえる。しかし、そのあと1980年代にもう一度頂点を迎えたが…。

 1970年は、いろいろな意味で境目となった年であった。60年代に吹き荒れた学生運動の嵐は、なんら成果もなく一気に沈静化していった。そのなかで「よど号ハイジャック事件」が起きて、一般市民は学生運動や左翼から遠ざかっていく。

 生活シーンでは、フランチャイズ・チェーンの時代が幕を開けた、ケンタッキーやマクドナルドが一号店をオープンさせた。銀座や新宿などで「歩行者天国」が開始された。そして、ボーリングが大ブームとなっていた。

 ファッションでは、ミニスカートとミディ、マキシとの端境期であった。やがて、それらにパンツルックも加わってくる。そして70年代は、60年代のミニスカート全盛から、ロング(服も髪も)、重ね着というスタイルに変化していく。

 意識や価値観では、学生の中で「三無主義」や「しらける」という動向が顕著となっていた。いずれも、60年代学生運動の敗北感が影響していた。

 日本万国博覧会は、そのような背景の中で盛大に開かれた。それはまるで高度経済成長の徒花として、最後に大輪の花を咲かせるかのようだった。祭りのあとには、それまでとは違う静寂が訪れる、万博のあと日本には経済成長の終焉が待っていた。

 1970年日本万国博覧会は、日本が経済成長の最中で未来に夢や希望がもてた、そんな良き時代の盛大な祭り事として、後世に語り次がれていくに違いない。

EXPO’70 驚愕! 大阪万国博覧会のすべて
1970年に行われた日本万国博覧会は日本人の2人に1人が訪れたという史上最大のEXPOだった。その真実に迫る。
EXPO'70 驚愕! 大阪万国博覧会のすべて

時代背景/1970年(昭和45年)

<主な出来事>
・日本万国博覧会(大阪万博)開幕(入場者6,421万 8,770人)
・日本航空機よど号ハイジャック事件発生
・ボーリング・ブーム
・ケンタッキー、マクドナルド日本第1号店がオープン
・日本初の歩行者天国が銀座、新宿、池袋、浅草で実施
・アポロ13号打ち上げ

<ファッショントレンド>
・レイヤードファッション流行(重ね着)
・ミディ、マキシ流行
・スケスケルック
・ノーブラ旋風
・トンボめがね流行
・ロングヘアー流行
・デザイナーブランドもの全盛

<新商品・流行語・その他>
・自動車 セリカ(トヨタ自動車工業)
・ミニカー トミカ(トミー)
・男性化粧品 マンダム(丹頂)
・シャンプー メリット(花王)
・缶コーヒー(上島珈琲)

・ヴィーナス(ショッキングブルー、70年の大ヒット曲)

・ウーマン・リブ
・三無主義(無気力、無関心、無責任のことで、当時の若者を表わす言葉)
・しらける(学園紛争が沈静化すると、若者たちの間に、何をやっても熱中できない「しらけムード」が広がった)
・人類の進歩と調和(日本万国博覧会のテーマ)
・モーレツからビューティフルへ(CM)

EXPO’70日本万国博覧会 1970年

人類の進歩と調和

 日本万国博覧会は、1970年3月〜同年9月まで大阪府吹田市の千里丘陵で開催された。博覧会へは、77カ国が参加し戦後復興が著しい日本の面目躍如の場となった。入場者総数はのべ6,421万8,770人となり、これまでで最大となった。

<日本万国博覧会の概要>
テーマ:「人類の進歩と調和」(Progress and Harmony for Mankind)
開催期間:1970年3月15日~9月13日(183日間)(開会式は3月14日)
会場運営:財団法人日本万国博覧会協会
会場面積:330ha
総入場者数:6,421万8,770人(うち外国人約170万人)
目標入場者数:3,000万人(その後5,000万人に上方修正)
参加国数:77カ国4国際機関
売上金額:入場券/約350億円 食堂・売店関係/約405億円
当時のレート:1949~1971年:1米ドル=360円(固定相場制)


万博会場全体/空撮
引用:http://jpninfo.com/wp-content/uploads/2015/05/osaka-banpaku-park-1.jpg


会場案内図
引用:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/61K3Q7N1KHL._SX258_BO1,204,203,200_.jpg

 財団法人日本万国博覧会協会の会長理事は石坂泰三、事務総長理事は初代が新井真一(のちに鈴木俊一に交代している)。

 会場の総合建築プロデューサーには、丹下健三が就任した。丹下は、1964年の東京オリンピックで代々木屋内競技場などを設計し、国内外で大きな評判を獲得していた。そして、万国博覧会では総合プロデューサーとして、会場全体を統括し、メタボリズムの概念を適応して会場に調和をもたらした。

メタボリズムとは
 1959年に黒川紀章や菊竹清訓ら日本の若手建築家・都市計画家グループが開始した建築運動。新陳代謝(メタボリズム)からグループの名をとり、社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案した。
博覧会のシンボルマーク


シンボルマーク
引用:http://livedoor.blogimg.jp/toua2chdqn/imgs/8/9/89a2cb23.jpg

 桜をモチーフにしたデザインが採用された。真ん中の丸は日本を表し、その周りの5つの花びらは世界の5大陸を表している。とてもシンプルで、かつ意味性が明確という、優れたデザイン表現となっている。デザインは大高猛。

テーマ館と太陽の塔


万博のシンボル/太陽の塔
引用:http://pds2.exblog.jp/pds/1/200702/27/36/e0083036_064329.jpg

 博覧会のテーマ館は、丹下健三が設計している。テーマ館の一部である「お祭り広場」には、銀色のトラスで構築された大屋根が覆っていた。その大屋根の一部を突き破るようにそびえ建っていたのが、シンボル「太陽の塔」であった。

 太陽の塔は、岡本太郎によって企画・制作されたものだ。塔の高さ=70m、基底部=直径20m、腕の長さ=25m。未来を表す上部の黄金の顔(直径10.6m、目の直径2m)、現在を表す正面胴体部の太陽の顔(直径12m)、過去を表す背面に描かれた黒い太陽(直径8m)の3つの顔を持っている。

太陽の塔/内部構造
 太陽の塔の内部は、「過去・現在・未来」をそれぞれテーマにした造形物が展示された空間になっていた。太陽の塔の内部にある高さ45mの「生命の樹」は、生命を支えるエネルギーを象徴し、未来に向かう生命力の強さを表現したそうだ。

地下ー過去…根源の世界 – 生命の神秘
地上ー現在…調和の世界 – 現代のエネルギー
空中ー未来…進歩の世界 – 分化と統合(組織と情報)

 ちなみに、当時岡本太郎は、博覧会のテーマ「人類の進歩と調和」に異を唱えて、それを覆すような意味で「太陽の塔」を70メートルという高さにしたそうだ。したがって、すでに設計されていた大屋根に「穴を開けろ」ということだった。

 それを訊いた丹下とスタッフたちは当然反発したが、最終的には丹下の判断で太陽の塔は建てられた。丹下健三の冷静な判断が「太陽の塔」を生かしたといえる。

 現在、塔内部は公開されていないようだ。一時期は公開さていたが、その後訊くところでは、耐震基準を満たしておらず、修復および強化する工事が追加でされているとか。たしかではないが…。とにかく再公開が待たれる。


太陽の塔/構造図
引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/c8/7755a8c3bd02caae96cdd308b99688b1.jpg


太陽の塔/内部造形
引用:http://batakuri-krb.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2015/10/29/54bdfdef962ffb1d22e19d6e8f2b69d2862.jpg

EXPO’70日本万国博覧会/施設会場(一部)

 いずれのパビリオンも一種独特の未来感に満ちている。施設の設計概念は、丹下健三が主導し、博覧会が終了後は無に帰すという概念が取り入れられたそうだ。要するに解体を考慮して設計されていた、と考えられる。


会場風景/右端はアメリカ館か、テーマ館と大屋根から突き出た太陽の塔が見える。
引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/71/Osaka_Expo%2770_Korean_Pavilion.jpg


会場風景/みどり館、古河パビリオン、電力館。右端は空中ビュッフェ。
引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e9/Furukawa_Pavilion.jpg


会場風景/ガスパビリオン
ガスパビリオンは、なんだか奇妙な形状ながらキュートなデザインだ
引用:https://flavorwire.files.wordpress.com/2013/01/1291230996-gas-pavilion.jpeg


会場風景/電力館(手前)と古河パビリオン(奥の塔)
引用:http://1970-photo-world.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_aee/1970-photo-world/img090-88.jpg


会場風景/東芝IHIグループパビリオン 
建築家・黒川記章のデザイン、三角錐のテトラ・ユニット1,476個を溶接して赤いドーム本体の周りを囲っている。
引用:https://static.retrip.jp/article/10879/images/1087957483983-16c1-44fa-9e43-0d2c95875a3e_m.jpg


会場風景/スイス館
これは超絶に格好がいい。外観だけで非日常感が満喫できそうだ。展示品は平屋の別棟にあるのだろうか。
引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Switzerland_Pavilion.jpg

施設内の様子、コンパニオン制服、その他

 それぞれのパビリオンで展示紹介されたモノやサービスのなかで、その後実現し広く普及したものが多くあった。以下に掲載したモノやサービスは、博覧会で紹介されて、その後開発が推進されて世に出たといわれる。

 ちなみに、リニアモーターカー(日本館)、電気自動車(ダイハツ)なども当時すでに展示紹介されていたそうだ。

温水洗浄便座(ガス館)
動く歩道
エアドーム(アメリカ館、富士グループパビリオン)
ワイヤレスフォン(現在の携帯電話、電卓の機能まですでに内蔵されていた。電気通信館。)
コンピュータ・ハンド・ゲーム(古河グループパビリオン)(人間の声でクレーンを操る大型のクレーンゲーム機。1985年からUFOキャッチャーという商品名で発売され、ゲームセンターなどを中心に全国で普及した。)
アストロラマ(みどり館)(360度全天周スクリーン映像)
テレビ電話(第三世代携帯電話でほぼ普及した)
ローカル・エリア・ネットワーク(LAN)
モノレール(アルウェーグ式を改良した日本跨座式が会場内にて初めて運用された)
サインシステム(ピクトグラムと共同運用した最初のもの)
電波時計、その他


施設内の様子
引用:https://pbs.twimg.com/media/C7GDbHXVoAAA91A.jpg


施設内の様子
引用:https://pbs.twimg.com/media/C7GDbHXV4AA8BiY.jpg


万国博の制服
ミニスカートが中心のようだが、パンタロンもすこし混じっている。ミニスカートもあくまで上品、かつ清楚な趣にあるように感じる。
引用:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/91mjvBlMzbL.jpg


万国博の制服/この当時は、ブーツが流行っていたんだね。
引用:http://www.lennus.com/blog/archives/2009images/expo70_001.jpg


万博会場を背景にしたファッション写真
70年代の幕開けを感じるファッションである。じつに色合いが派手である、また全体的にまだ60年代の雰囲気が微かに漂っているようだ。
引用:https://pbs.twimg.com/media/CvqbTNGVIAA4LyU.jpg

冒頭写真:万博会場を背景にしたファッション写真
引用:https://pbs.twimg.com/media/CvqbTNHUkAAk-dS.jpg

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