■時代と流行|昭和のモダニズム3 脱インターナショナルを目指した日本建築のモダニズム

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日本建築の美とはなにか

近代と伝統のあいだで揺れる日本建築

 20世紀になると、それまでの古典様式から「鉄とガラスとコンクリート」による「モダニズム建築」が一斉を風靡し始めた。それは俗にインターナショナルスタイルと呼ばれて、世界中の建築様式のスタンダードを目指した。

 日本でもその影響は当然受けたが、当時の日本の建築家はインターナショナルスタイルを単に模倣するだけでなく、日本の風土や文化に根ざした「日本建築のモダニズム」とはなにか、という問題にも真摯に取り組んでいた。

 日本の近代建築は、明治維新以降、西洋文化やその技術を取り入れることから始まった。明治期には雇われた外国人建築家によって数多くの西洋建築が建てられた。そして日本人建築家も西洋建築を学んでいた。また、日本人大工は西洋と日本の伝統様式を合体し、和洋折衷の「疑似西洋建築」を造り上げていた。

 そのような中で、建築家たちはふと疑問を感じ始めていた。西洋の模倣ばかりでいいのかと。デザインはときに文化を表現し、固有の存在意義を示す。そこで建築家たちは、日本的な建築とはなにか、その真髄とはなにか、を考え始めた。

 日本の建築史は明治期にはまだ確立されていなかった。諸外国から日本的建築とはなにか、と問われた建築家たちは、徐々に日本建築史を調査し考察に乗り出していく。その結果、忘れかけられた法隆寺も伊東忠太によって再認識された。

 1920年頃、堀口捨己、山田守らは分離派建築会を結成した。その活動の中で、西洋建築とは大きく異なる「桂離宮」など、数寄屋や茶室の思想性や様式美が注目されていった。同じ頃、外国人建築家ブルーノ・タウトは、装飾過多の日光東照宮を非難し、桂離宮こそ日本の美として賞賛していた。


桂離宮の一部分、モダニズムと共通する構成された美が感じられる
引用:http://www.imgrum.org/user/elephant_tokyo/2237097001/1398384669754194997_2237097001

 日本の建築といえば、神社仏閣などの建築が思い起こされる。しかし、目の肥えた外国人建築家からは、よりシンプルに研ぎ澄まされた桂離宮などの数寄屋や茶室に目を奪われたようだ。そこにはモダニズムの要素が集約されていたからだ。

 しかし、日本的建築はひとつに集約はされなかった。桂離宮のようなシンプルな数寄屋や茶室か、モニュメンタルな法隆寺なのか、または伊勢神宮に代表される神社建築か、それとも装飾過多な寺院建築なのか。

 そして日本的建築の概念は、時代の要請とともに移り替わっていく。

 時代はしだいに軍国主義の様相を帯びていった、それにしたがって建築にはより荘厳な趣が求められいく。その結果、「帝冠様式」という鉄とコンクリの建物に和風の屋根を無理やり付加したけったいな建築が生まれた。

 終戦後、いま一度日本的な建築とはなにかが問われた。そして、1964年東京オリンピックを機会に、当時の優秀な建築家がそれに挑戦した。

1964年東京オリンピックの日本建築


建築資料にみる東京オリンピック
引用:https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/736x/7d/9f/3c/7d9f3c6bf709b00bf21980e0d9504c68.jpg

 日本の戦後復興の象徴となった1964年に開催された東京オリンピックでは、数多くの競技場や、その他の施設が新しく建てられた。それらの多くは日本の建築史にいまもなお燦然と輝いている。

 丹下建三の代々木屋内競技場と体育館、山田守の日本武道館、芦原義信の駒沢体育館とオリンピック記念塔などである。他にも、清家清や菊竹清訓らがいる。いずれも、いまもなお残る時代の記念碑的な建築として名高い。

 1964年の東京オリンピックの施設計画には、総合建築プロデューサーともいうべき存在がいた。それが、岸田日出刀(建築家、日本建築のモダニズムを推進した)であった。岸田は、幻となった1940年の東京オリンピック(戦争で中止)でも施設計画を推進する予定であった。

 1964年の東京オリンピック開催は、岸田にとっては願ってもない機会となった。岸田は、施設特別委員長となり、計画を推進していくことになった。丹下健三はじめ、各施設設計者の選定に並々ならぬ情熱を注いだといわれる。

 ちなみに、岸田と丹下は師匠と弟子の関係にあり、丹下の才能を高く評価した岸田は、設計の機会を度々提供していた。

 実質的な建築プロデューサーとなった岸田は、オリンピックを機会に日本建築の真髄を具現化しようとした。それは、かつての軍国時代の帝冠様式ではなく、もっとシンプルで、それでいて日本の美を象徴する建築であった。

 そして、その目論見通り、1964年東京オリンピックの各種競技場と付属施設は、インターナショナルスタイルとは違う、日本固有の精神性に則った建築が出来上がった。世界的にも高く評価されて、その後の日本人建築家の飛躍に繋がった。

 とくに、代々木屋内競技場を設計した丹下建三には、オリンピック終了後、当時のIOCから建築家として異例となる特別功労賞が贈られている。

日本建築の傑作、代々木屋内競技場


代々木屋内競技場:設計/丹下建三
引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yoyogi-National-First-Gymnasium-01.jpg

 代々木にオリンピック施設を建設するのは、岸田(施設特別委員長)の念願であった。1940年の幻のオリンピックのときも、岸田は代々木を候補に挙げていたが、当時は軍に反対された(陸軍練兵場だった)といわれる。

 終戦後は、在日米軍の施設(兵舎、家族用居住宿舎)であるワシントンハイツとなっていた。その施設の一部はいまでも代々木公園のなかに残されている。

 丹下建三の設計した代々木屋内競技場と体育館は、そのワシントンハイツ跡に建設された。そして日本の建築史に燦然と輝く記念碑的な作品となった。

 屋根の形状が特徴的なこの施設は、日本の伝統性を象徴的に表現していた。と同時に日本固有のモダニズムを成立させていた。インターナショナルスタイルとの違いが、一目瞭然となっていたのは言うまでもない。

 そして、施設計画を推進した岸田が望んだように、日本建築の真髄を象徴する存在となった。また技術的にも困難を極めたと思われる形状を実現したことは、当時の日本が、世界にその存在を示すものとなった。

 おしむらくは、その後周囲の施設と代々木屋内競技場との整合性が失われてしまったことだ。ちなみに近くには巨大なNHKの施設群がある。

「全体に漂う造形感覚は、弥生と縄文が緊張感を保ったままバランスを取り、地に近いほど縄文性は深く、上昇するに従い弥生性が高まる…具体的な形における伝統性は屋根に極まっている」(藤森照信/建築史家)

 藤森氏が、「具体的な形の伝統性は屋根に極まっている」と指摘するように、大屋根の形状こそが、この施設の真髄を象徴的に示している。また、この施設の建設にあたり、明治神宮本殿から南北軸線を受け止める場所に配置したといわれる。

 それは、都市デザインを意識した意味性を考慮した結果と思われる。


代々木屋内競技場/屋根の一部分は神社の千木を連想させる
引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Yoyogi-National-First-Gymnasium-03.jpg


代々木競技場パンフレット(PDF)

代々木競技場のサイト/日本スポーツ振興センター

東京のランドマーク、日本武道館


日本武道館:設計/山田守
引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nippon_Budokan_2010.jpg

 1964年の東京オリンピック施設は概ね好評だったが、一部の施設は日本古来の伝統を意識し、その象徴性が過剰である、として建築界から非難された。

 それが、いまでは東京のアイコンのひとつとなった「日本武道館」であった。たしかに、屋根の形状、玉ねぎといわれる屋根の上の「擬宝珠(ぎぼし)」は、伝統の引用そのものであった。しかし、設計した山田守にも言い分があった。

 そもそも、日本武道館は、天皇の還暦を記念して造成された北の丸公園内に建設されることになった。したがって、周辺環境との調和がとくに意識された。そして、森林の多い公園になじむように、富士山のシルエットを引用して屋根が設計されたといわれる。(東京オリンピックの全貌より)

 全体の形状が八角形となったのは、武道は方位を重要と考えるためだそうだ。その結果、法隆寺夢殿を彷彿させるようになった。

 当時の建築界からは、なにかと非難された日本武道館であるが、その後の認知の高さは、代々木屋内競技場以上となっている。それは、世界各国のミュージシャンたちがそこでコンサートを開き、多くの人たちが集まったからに他ならない。

 現在でも、コンサートなら無味乾燥な東京ドームよりも、やはり武道館を愛すというミュージシャンやファンが多く存在している。

 1964年東京オリンピックの施設の中でも、日本武道館がもっとも良く知られて、もっとも長く「親しまれてきた」と言うことができるだろう。

 ちなみに、日本武道館を設計した山田守は、悪名高い「京都タワー」も設計している。和蝋燭からヒントを得たといわれているが、個人的にはキッチュとしか思えない。京都にあれが必要だったか、と疑問に感じている。


日本武道館
引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nippon_Budokan_1_Kitanomaru_Chiyoda_Tokyo.jpg

実現した駒沢オリンピック会場


オリンピック記念塔と体育館:設計/芦原義信
引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Komazawa_Gymnasium_%26_Control_Tower_2009.jpg

 駒沢会場(現・駒沢オリンピック公園)は、元はゴルフ場だったそうだ。昭和24年、第4回国民体育大会の競技場として改修された。1940年の幻の東京オリンピックでは、神宮外苑や代々木が宮内省や軍の反対で頓挫し、駒沢を中心として計画が進められたといわれる。

 終戦後、幻のオリンピックから24年、再びオリンピックの機会がやってきた。駒沢は、オリンピックの第2会場として整備されることになった。全体の会場計画は、都市計画家の高山英華を中心に、各施設の設計は芦原義信、村田政真、横山光男、八十島義之助、秀島乾らが手掛けた。

 1964年東京オリンピックに際し、以下の様な競技施設および付帯施設が建設された。これらは、現在も改修されながら使用されている。

<1964年東京オリンピック/駒沢第2会場の施設群>
・体育館………………レスリング場
・屋内球技場…………バレーボール会場
・陸上競技場…………サッカー会場
・第一・第二球技場・補助競技場……ホッケー会場
・オリンピック記念塔

 オリンピック記念塔と体育館は、芦原義信が設計した。記念塔はまるで五重塔のような形状を、そして体育館は大胆に構成された大屋根が存在感を示している。いずれも日本古来の伝統にインスパイアされて、当時の最新技術で表現したものといえる。

 陸上競技場は、村田政真が設計した。特徴的な花弁のような形状をした構造物が一部の外周を覆っている。これは屋根としての機能を持ったものらしい。いま見てもなかなかにモダンな趣を発している。

 会場全体から見た場合でも実に印象的に映えている。駒沢の会場全体と各施設は、ある共通する意識にあるようにバランスが取れている。また、当時としては、かなり斬新で先進的な会場づくりだったと思われる。


駒沢体育館
引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Komazawa_Gymnasium_2009.jpg


駒沢陸上競技場:設計/村田政真
引用:http://ms-cache.walkerplus.com/walkertouch/wtd/images/n/100976.jpg


1964年、駒沢会場の様子。オリンピック記念塔と、その背景に陸上競技場の花弁状の構造物が見える。
引用:http://www.joc.or.jp/past_games/tokyo1964/memorialplace/images/detail_6_2.jpg

駒沢オリンピック公園のサイト

参考:日本建築入門ー近代と伝統ー (ちくま新書)
日本建築入門 (ちくま新書)

追記:
 東京では2度目となるオリンピックが、2020年に開催される。前回と違って、施設建設に関して問題点が度々浮上しては、一般市民を困惑させている。

 政治家や、五輪委員会、施設計画の関係者は、なにかというとレガシーを連呼する。しかし、その意味を理解しているのか甚だ疑問である。なんだか予算を多く獲得する方便として使われてやしないか。

 1964年の東京オリンピック時に建設された施設は、本当にレガシーとなった。2020年は、果たしてどうなるだろうか。いまのところ期待が持てないが…。

完全保存版! 1964年東京オリンピック全記録 (TJMOOK)
いまから56年前に開催され、いまだなお経済発展の象徴として取り上げられる、1964年東京オリンピックの全貌ーー
完全保存版! 1964年東京オリンピック全記録 (TJMOOK)

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