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■時代と流行|ヒップホップの生態史 時代はそこに何を見出したか

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ヒップホップは、ゲットーから生まれた

ヒップホップの誕生

 ヒップホップは、現在では当たり前のように存在する音楽の一形式となっている。その音楽性は世界中に広がりを見せて、いまでは多くのヒット曲がなんらかの影響下にあるといわれるようになっている。

 しかし、そこに至るまでには幾多の試練を越えてきた。それは、ブルースやジャズと同じく、アフリカ系アメリカ人が生み出した音楽故の試練といえた。

 ロックがそれまでの大衆音楽に対抗する音楽として誕生したように、ヒップホップは、ディスコやR&B(ソウル)に対抗する音楽として生まれた。なぜなら、ディスコやR&Bは、白人文化に取り込まれた黒人音楽とされたからだった。

 70年代初頭、ニューヨークの黒人居住地区(ゲットー)であるブロンクスは荒廃し、まるで廃墟のごとくとなっていた。そこは、まるで核爆弾を投下した後のようだとまでいわれていた。犯罪は多発し、火事も頻繁に起きていた。

 そのような悪化した環境下にあるゲットーからヒップホップは産声をあげた。それはまるで黒人の存在意義を主張するかのごとくだった。そして、その音楽にはどこにもない、そこにしかないオリジナリティーがあった。

 独自性こそがヒップホップの真骨頂であり、同時にゲットーの存在意義を示すものだった。アフリカ系アメリカ人は、ブルース、ジャズ、R&Bなどに続いて、また革新的な音楽を生み出したのだった。


廃墟と化したブロンクスのゲットー(70年代初頭か)

ゲットー=特定の民族や社会集団の居住する区域。
生態=社会生活をしているもののありのままの姿。「若者の―」

ヒップホップの黎明期/1970年代

 現代では、ヒップホップといえば、ラッパーと同義のように捉えられている。しかし、ヒップホップ創世記(70年代初頭)では、ラッパーはいなかった。サンプリングという技法を駆使したサウンドが中心となっていた。

 そこにDJ、またはMCと呼ばれる進行役がいて、場を盛り上げていた。やがて、MCは独自の主張をサウンドに重ねていった。それがラッパーの登場だった。

 やがてヒップホップは、進化し、広がるにしたがって、単なる音楽の一形式を越えてヒップホップ文化を形成していく。サンプリングなどの技法を駆使したサウンド、独自の主張をするラッパー、そしてブレイクダンス、さらにはグラフィティアートや独特のファッションまでと、その領域は広がっていた。

<ヒップホップ((hip hop)の意味性>
hip=かっこいい(スラング)、hop=跳ぶ、跳躍するという意味
1970年代、ニューヨークのブロンクス

 1970年代初頭、ニューヨークではディスコ音楽が隆盛をみせていた。白人を中心に誰もが着飾って集いフロアで踊っていた。しかし、荒廃したゲットー(黒人居住区)であるブロンクスでは違っていた、小規模のパーティーで流されていた音楽が注目されていた。

 それが、クール・ハーク(ブレイクビーツの発明者)、グランドマスター・フラッシュ(スクラッチ技術を普及)、アフリカ・バンバータ(ヒップホップという言葉の生みの親)などによる音楽であった。

 その音楽は単なるコミュニティ・パーティの場を越えて広がり始めていた。これが、ヒップホップが誕生した創世記といわれている。(なお、諸説あり)

 ヒップホップ創世記のスタイルは、DJが主役であり、サウンドが主体であった。ラッパー(MCといわれる)は場を盛り立てる脇役であり、そしてスタイルもまだ確立されていなかった。

 しかし、すでにヒップホップの主要素は出揃っていた。音楽のサンプリング、カットアップ、リミックス、そしてスクラッチやメリーゴーランドという技法などである。やがて、これらの技法は、機器の技術進化でより洗練されていく。

 前述したヒップホップの先駆者たちは、なぜかレコーディングにあまり興味を示さなかった。パーティーなどのライブを重視していた。したがって、当時の音源はあまり残されていないようだ。

 ヒップホップが正式にレコーディングされたのは、1970年代後半といわれる。

 1979年、ヒップホップ最初のヒット曲が発売された。それがシュガーヒルギャングの「ラッパーズ ディライト(1979)」という曲だった。この曲は、大ヒットしてヒップホップ、そしてラップの認知を広げることに貢献した。

 しかし、一方でこの曲は、ヒップホップの先人たちの業績をぱくっていたことで業界人からは非難が寄せられた。さらに、この曲は軽さが売りだったこともあり、ヒップホップ自体の価値が低く見られるというおまけも付いてしまった。

B-BOY PARK 2000 9/3.約束の土地で…
オムニバスアルバム、クール・ハーク、&9、その他
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ヒップホップの隆盛期/1980年代

 ヒップホップは、「シュガーヒルギャング」によって最初のヒットを出したが、業界全体としては満足していなかった。

 そこでヒップホップの先人のひとりであるグランドマスター・フラッシュは、新しいグループを結成し、真のヒップホップで一発かますことにした。それが、グランドマスター・フラッシュ&フューリアスファイブ の「ザ・メッセージ(1982)」という曲だった。

 この「ザ・メッセージ」という曲は、楽しいパーティソングではなく、切実な社会問題をテーマとしていた。黒人とそのゲットー(居住区)に関する、ありのままの姿を歌詞にして、憤りの想いを吐き出すかのように力強いラップにしていた。

 ヒップホップは、単なるパーティーを盛り上げる音楽ではなく、社会的な問題にも積極的に関わるという新しい可能性を獲得していた。

 1980年代は、ヒップホップがゲットーを出て社会に認知された時代となった。

RUN-DMCとパブリック・エナミー

「RUN-DMC」は、一般人がヒップホップ、とくにラップに抱くイメージを一番よく表していた。サウンドは、ドラムマシーンだけの単純なリズムが繰り返されて、そこにラップが見事にマッチングするという具合だ。

 また、そのスタイル(ファッション)も一般人に強く印象を与えた。黒い革ジャンなどの衣装、ハット帽、ギラついた太いネックレスなどが、そのままストリート感となってRUN-DMCのヒップホップを象徴していた。

 さらに、スポーツシューズの「アディダス」を履くことで、ヒップホップとスポーツブランドの橋渡しをしている。そして、その後のスポーツシューズの一般(若者文化)への浸透と広がりに大きく貢献したといえる。

 ちなみに、RUN-DMCはヒップホップ界のビートルズといわれているそうだ。

Best Of
Best Of

「パブリック・エナミー」は、戦うヒップホップというイメージを確立した。グランドマスター・フラッシュ&フューリアスファイブが、「ザ・メッセージ」で先鞭をつけた不条理と戦うヒップホップをさらに推し進めてみせた。

 とくに「ファイティング・パワー(1989)」という曲は、音楽活動というよりも社会運動の一種かのような趣を醸し出していた。黒人が置かれた社会環境への怒りが、そのモチーフとなっていた。ちなみにスパイク・リーが監督した映画、「ドゥ・ザ・ライト・シング(1989)」のテーマ曲でもあった。

 パブリック・エナミー(社会の敵)は、そのグループ名とは相反する、黒人の「平和と権利」を勝ちとる戦いをヒップホップを通して行おうとしていた。

 1980年代、ヒップホップは社会的に認知されて、新しい領域へと進んでいた。

 それは、ヒップホップが音楽として認知されたことで、同時にビジネスとなったからだった。専門のレーベルが立ち上がり、それに連れて多くのグループが誕生し、切磋琢磨して技術的にも進化していた。

 とくに1986年頃から90年代初頭までの期間は、ヒップホップが可能な限り、その音楽性を広げて、革新的な作品や技法を生み出したゴールデンエイジとなっていた。

ギャングスタラップと新たな夜明け/1990年代以降

 ヒップホップは、東海岸のニューヨークが発祥であるが、その音楽が広がる中で西海岸でもおなじような動きが生まれていた。ヒップホップは、その発祥の地が荒廃していたこともあり、ギャングとの結びつきが元々あった。

 西海岸、とくにロサンゼルスでは、それが顕著となって現れていた。

 それが「ギャングスタラップ」と呼ばれるヒップホップのスタイルであった。ヒップホップのグループの中に現役のギャングが混ざっていて、生々しいギャングのライフスタイルを歌詞にしラップにしていたのだ。

NWAとドクタードレー

 1988年から89年にかけてNWAのアルバム「ストレイト・アウタ・コンプトン」が空前の大ヒットとなり、全米にギャングスタ・ラップの存在が認識された。

 そして、1992年にNWAのメンバーの一人だったドクター・ドレーが発表したアルバム「The Chronic」の大成功により、ギャングスタラップはラップミュージックの中で最も影響力を持つ存在となった。

 ギャングスタラップは、端的にいえば攻撃性が特徴となっていた。暴力性を帯びた歌詞は殺伐した雰囲気と危険な香りに包まれていた。

 サウンドもどこか緊張感が漂っていて、さらにその音楽性の危険さを助長するかのようだった。しかし、一方ではその危険な香りに誘われるように人気は高まり、ギャングスタラップはビジネスとなっていた。

 西海岸ロサンゼルスには、ギャングスタラップの専門レーベル「デス・ロウ・レコード」が誕生していた。デス・ロウ・レコードでは、ドクター・ドレー、2パックやスヌープ・ドッグ等のアーティストが商業的な面でも大成功を収めていた。

 しかし、ギャングスタラップはその攻撃性故にやがて事件化していく。

 西海岸のデス・ロウ・レーベルと、東海岸のバッド・ボーイ・エンターテインメントの間で対立が生じていた。それぞれに所属するラッパーは、相手を威嚇、中傷するようなラップを行って軋轢をさらに深めていた。

 そして、それはギャングやマフィアを巻き込んで抗争事件へと発展し、やがて西海岸の2パックと、東海岸のノートリアス・B.I.Gのふたりのラッパーが銃弾に倒れるという結末を迎えてしまった。

 ギャングスタラップは、その誕生の土壌からギャング同士の抗争と無関係ではいられなかった。それが大きな要因となって、多くの同胞だけでなく、多方面からも非難が寄せられていた。そして、必然的に(2004年頃〜)勢いを失っていく。ちなみにギャングスタラップでもっとも成功したのは「50セント」といわれている。

 ギャングスタラップが勢いを失うと、ヒップホップはすぐに新しい夜明けを迎えていた。2004年以降、電子音楽を多用した次世代ヒップホップ、いわゆる「クランク」と呼ばれる新たなラップムーヴメントが誕生していた。

 そして現在(2017年)、ヒップホップは衰えることはなく、多くの新しいラップミュージシャンを生み出している。また、誕生からすでに40年を過ぎて一ジャンルの壁を越えて音楽に影響を与え続けている。

参考&写真引用:ヒップホップ・エボリューション(ドキュメンタリー/NETFLIXより)

関連情報:
 NETFLIXでは、「ゲットダウン(GET DOWN)」という1970年代のヒップホップ黎明期を舞台にした海外ドラマを配信しています。ヒップホップに関心がなくても、時代の息吹を感じることができる興味深いドラマだと思います。

ストレイト・アウタ・コンプトン
ストレイト・アウタ・コンプトン

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