グループサウンズはロックか否か
怒涛の時代に突如咲いた徒花
1960年代は、まさに怒涛の時代だったと言っても過言ではない。
60年代は、東西冷戦の真っ只中にあった。キューバ危機(62年、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設しようとした)に端を発し、米ソ核戦争が一触即発の瀬戸際に陥ったが、米ソ両国首脳のぎりぎりの駆け引きでなんとか回避された。
米ソ核戦争の危機を回避した米国大統領ケネディは、63年に暗殺された。
64年、トンキン湾事件を機に、米国はベトナム戦争に本格介入しその激しさを増していった。やがてベトナム戦争は泥沼状態となり、60年代を通して米国は内外から非難を浴びていた。中国では、実質的な権力闘争である「文化大革命(66年)」による大粛清の嵐が吹き荒れ始めていた。
日本では、「安保反対闘争(60年)」にはじまり、学生運動が激しさを増していた。64年、東京オリンピックが開催された。
アートはポップ、音楽はロック
東西冷戦、ベトナム戦争に揺れる一方で、文化の世界では、アートはポップアートが、そして音楽はロックという新しい息吹が生まれていた。
音楽でいう、ロックは黒人音楽(ブルース、R&B)が発祥であり、それを一般に広く認識させたのは、言うまでもなく50年代のエルビス・プレスリーだった。しかし、その当時のロックは、まだ従来のポップスの概念を引きずったままだった。
ロックがその概念を定着させて、大衆音楽の一大潮流となったのは、60年代のビートルズをはじめ、その他多くのミュージシャン達の活動だったのは間違いない。
50年代のエルビスと、60年代のビートルズたちの違いを端的にいえば、60年代は自作自演するバンド形態が主流だったことだ。バンドのメンバーが作詞・作曲し、それを演奏することでよりオリジナリティを際立たせていた。
そして、その流れは以後の音楽シーンの主流となっていく。したがって、60年代は、大衆音楽に革新を起こしたエポックメイキングな時代だったといえる。
日本では、グループサウンズが登場!
そのような時代の流れのなかで、日本でもビートルズたちのようなバンド形態による音楽が生まれていた。それが、「グループサウンズ」であった。
ザ・タイガース 人気ナンバーワン
引用:http://www.toho-a-park.com/gsage/gsand60s.html
しかし、グループサウンズはロックではなかった。表向きロックを装った歌謡曲の流れにあったのは間違いない。なぜなら、作詞・作曲の多くを、演歌や歌謡曲の作者たちが楽曲制作に携わっていたからだ。
グループサウンズでは、バンドのメンバーが作詞・作曲することはまれだった。レコード会社が作家制度を採用していたからともいわれる。
グループサウンズの楽曲の多くは、切なく甘い詩と、哀愁を帯びたメロディーが特徴であり、それはもろ歌謡曲のものだった。それをバンドが自演することで、ロック風を装っていたに過ぎなかった。違うだろうか。
「ロックのようであり、実はロックではなかった」、という日本独自の音楽形態が生まれていた、と言っていいだろう。なお、あくまで個人的見解ですが。
グループサウンズの全盛期は、60年代半ばから後半に掛けての、ほんの数年でしかなかった。怒涛の時代に合わせるように、グループサウンズもまた怒涛のように押し寄せて、あっという間に消えていった。
そんなグループサウンズは、まさに「時代の徒花」と呼ぶに相応しいだろう。
グループサウンズ全盛期、ビートルズは遠い先にいた
グループサウンズが全盛を迎える頃、1967年にビートルズは「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」というアルバムを発表した。その音楽性は業界やファンに強い衝撃を与えるものだった。
ビートルズは、もはや単純なロックではなく、より音楽の幅を広げてみせた。大衆音楽に革新性をもたらし、その可能性を示したといえる。このアルバムがその後の音楽業界に大きな影響を与えたのは言うまでもなかった。
繰り返すが、ビートルズが「サージェント・ペパーズ〜」を発表したのは、1967年だった。日本のグループサウンズは、その時期から全盛期を迎えていく。
その違いには、とにかく愕然とするしかない。なぜなら、あまりにやってることに違いがありすぎるからだ。その格差はなんだと思うしかない。
日本で、日本語によるロックを生み出したのは、細野晴臣をリーダーとしたバンド「はっぴいえんど」である、という説がある。そして、趣はだいぶ違うが70年代のキャロルや、その他のバンドへと続いていくーー。
ザ・スパイダース グループサウンズの老舗
引用:http://www.toho-a-park.com/gsage/gsand60s.html
<追記>
グループサウンズを否定的に捉えた見解になりましたが、実は案外嫌いではありません。グループサウンズをロックと同義とすると、否定的になりますが。あれは日本ならではの音楽ジャンルの一種として考えれば、意外といい楽曲もあるし、日本でしか生まれなかった音楽のように思います。
グループ・サウンズ(和製英語: group sounds)とは
ギターなどの電気楽器を中心に数人で編成される、演奏及び歌唱を行うグループ。欧米における「ヴォーカル・アンド・インストゥルメンタル・グループ」の影響を受けたとされ、1967年(昭和42年)初夏より1969年(昭和44年)春にかけて日本で大流行した。略称GS。当時(60年代)は長髪やエレキギターといった要素は不良、若者の非行に結びつけられ、一般社会からの風当たりは非常に強かった。そのため、グループ・サウンズのコンサートを観に行った高校生には停学もしくは退学処分を下され、コンサートに行くこと自体を禁止する中学校・高校が続出した。(ウィキぺディアより)
冒頭動画:愛する君に – The Golden Cups “1968
グループサウンズの代表的なグループと楽曲
引用:https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-ae-85/xqjng092/folder/187268/68/25135668/img_0
1968年の最盛期までに、100をこえるグループがレコードデビューしたといわれる。しかし、その後は人気バンドの主要メンバーが脱退したり、歌謡ムード路線へと移行するバンドなどが出て人気に陰りが出始めた。
1969年には一気に衰退の兆しが顕著となり、70年代初頭までに多くのバンドが解散、あるいは自然消滅した。
ザ・タイガースThe Tigers/シーサイド・バウンド(1967年)
グループサウンズのなかで最も人気が高かったのが、ザ・タイガースだ。沢田研二の美貌と歌唱力、メンバーのキャラも立っていた。楽曲もかなりいい曲が揃っていたようだ。メンバーは途中で1人が脱退し、71年に解散した。
田辺昭知とザ・スパイダースThe Spiders/フリフリ(1965年)
1965年5月、田辺昭知とザ・スパイダースは『フリフリ』を発売、この曲が最初のグループ・サウンズのレコードとされているそうだ。堺正章氏が在籍していたことで有名である。リーダーの田辺昭知氏はいまでは大手芸能プロを経営している。
ザ・ゴールデン・カップスThe Golden Cups/本牧ブルース(1969年)
グループサウンズのなかでは最もロック色が強いグループ。もとは横浜のゴールデンカップというライブハウスに出演していた。地元では有名なバンドだった。R&Bやブルースなどが得意なようだ。いまでは伝説のバンドといえる。
ザ・テンプターズThe Tempters/神様お願い(1968年)
俳優として有名な萩原健一が在籍していたバンド。タイガースのいわば対抗バンド的な位置付けにあったようだ。
ザ・ワイルド・ワンズ/想い出の渚(1966年)
グループサウンズのなかでは希少なメンバー作曲によるオリジナルを楽曲とした。作曲の多くは加瀬邦彦が担当していた。加瀬氏はのちに有名作曲家となり、多くの歌手に曲を提供している。とくに沢田研二が有名である。
ザ・カーナビーツThe Carnabeats/好きさ好きさ好きさ(1967年)
ドラムを演奏しながら歌もうたう、アイ高野の存在が目立つバンド。
ザ・サベージ/いつまでも いつまでも(1966年)
いまでは俳優である寺尾聰が在籍していたバンド。良家のボンボンが集まったような上品さと清潔感が漂っている。
ズー・ニー・ヴーZoo Nee Voo/白いサンゴ礁 (1969年)
ボーカルの町田義人の声質が渋すぎる。ロックというよりソウルがよく似合う。
ザ・ジャガーズThe Jaguars/君に会いたい(1967年)
タイガースがあるから、ジャガースもありか。なんだかアップルのMacOSの名称のようだが、この楽曲はなかなか侮れない出来具合いだ。
たどりついたらいつも雨ふり – The Mops
ロック色が強いグループ。実力的には申し分なく、ゴールデンカップスとおなじく、当時は異端の存在と思われる。この楽曲は、吉田拓郎によるものだ。
グループサウンズ文化論 – なぜビートルズになれなかったのか (単行本)
おまけ/60年代のファッション
60年代のファッションといえば、とにかくミニスカートである。マリークワントによって世界に発信されて一躍人気となった。
しかし、それも60年代半ば以降のことらしい。アメリカなどでは60年代初頭は、ジャッキー(ケネディ夫人)のような清楚で上品なファッションが受けていた。ちなみに、当時のファッションの震源地はロンドンだったようだ。
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