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■時代と流行|昭和のモダニズム(1)日本のアールデコ

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昭和のモダーンは、うたかたの如く消えた!


旧・浅香宮邸(現・目黒庭園美術館)

昭和モダンは、戦前と戦後の二つに分けられる。戦前は、1930年代(実際は大正末期から)、戦後は1950年代(昭和30年代)である。

1930年代、日本にもアールデコがあった!

1926年、元号は大正から昭和に変わった。やがて来る、世界恐慌を前にして日本では、すでにその兆候が現れていた。1927年、大蔵大臣の失言から横浜で銀行の取り付け騒ぎがあった。一方、文化・芸術面では、大正ロマンの面影を残しながらも新しい息吹が芽生えていた。それが、1925年様式と言われた「アールデコ」であった。

このモダニズムの新様式は、曲線的なアールヌーボーに対し、直線的な美が特徴であった。それは、工業化社会のデザインと言われた。アメリカでは、高層建築のクライスラービルやエンパイア・ステートビルの内外装にこの様式が使われた。ヨーロッパでは、生活雑貨などにも多く使用された。しかし、この様式美はあまり長く続かなかった。それは、やがてくる世界不況のなかに飲み込まれたのである。

日本の貴族階級は、当時、欧州へ留学するのが習わしであったようだ。後にアールデコの館を建造する朝香宮鳩彦王(皇后の叔父)もフランスにいた。そこでアールデコを体感したことが、後の自邸建造にこのモダニズムを取り入れた理由だそうである。この、朝香宮邸は目黒に建造された。建築の設計は、宮内省の設計士らしいが、内装や装飾品はフランスの一流の作家が、デザインを担当した。

インテリアは、アンリ・ラパン。装飾品は、ルネ・ラリックであった。ラリックは、ガラスを使った装飾品のデザインで有名であった。コティの香水瓶を制作している。朝香宮邸でも、玄関の壁面を飾ったレリーフや、セーブル窯の「香水塔」、大広間のシャンデリアなどをデザイン・制作している。とにかく、この建物は、細部までデザインが施されており、いま見ても飽きる事が無い出来映えである。

この「朝香宮邸」は、戦後、吉田首相が一時期住んだことでも有名である。国会をバカヤロー解散した当時は、この邸に住んでいた。その後、堤康次郎率いる西武に買い取られた。それを東京都が買い上げて、現在は「目黒庭園美術館」となっている。数少ない日本のアールデコの館は、こうして残ったのは幸いである。壊されてホテルにならなくてよかったと思う次第である。


ラリック作 奥に見えるセーブル窯の香水塔とシャンデリア

和洋折衷、和魂洋才もここに極まる!

さて、昭和モダンであるが、現在では大正ロマン(1920代〜)以後も含むという説が有力であるようだ。明治期に欧米に追いつくために和洋折衷や和魂洋才という言葉が使われたそうだが、当時は一部の人々を除くとそういう傾向とは無縁であったと思われる。しかし、それも大正以後となると一般の生活様式のなかにも欧米文化を取り入れることが顕著となって現れていた。

モダンガールやボーイといった洒落もののあいだでは、フランスやアメリカからの文化を受容し消費するようになっていた。そして、それは新しい文化の息吹を生みだしていた。生活様式は、着物から洋服に帽子を被るようになっていた。また、女性もバスガールやウェイトレスなどの職業に従事した。洋食レストランやカフェーといった洋風文化を取り入れた飲食の新業態も人気となっていた。

建築の分野でも、ライトの帝国ホテル(大正末期)をはじめ多くのモダン建築が建てられていた。前述した旧・浅香宮邸もそうである。しかし、現存するのは多くはないようである。大正末期から昭和初期に建てられた同潤会アパートも壊されて一部が残されるのみである。個人的には、表参道や代官山にあったこれらの建物をかろうじて見る事も体感することもできた。

他にも多くの文化的特徴があるが、それはさておき、この時代の特徴はなんといっても軍国主義の足音が大きくなっていたことである。明治期に言われた和洋折衷などのスローガンは、いわば軍備も洋式にと言ったことに他ならない。西洋の知識や合理性を取り入れて欧米と対等になることが目標であった。しかし、昭和の軍人は、いつのまにか西洋の知識・経験を軽んじた行動に走っていた。

それは何故なのか、それはテーマの趣旨とは違うのでここでは触れないが、ともかく、時代の趨勢が軍国化することによって昭和モダンも終息したのであった。それは、短くも果てない夢を追った昭和の出来事であった。


香水塔

参考文献:目黒庭園美術館サイト、ウィキペディア、その他

以下は、旧朝香宮邸を紹介する書「アール・デコの館」

アール・デコの館―旧朝香宮邸 (ちくま文庫)

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