帝国末期と崩壊後に現れた新しい潮流
1918年、第一次世界大戦に敗れたハプスブルク帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)は、約650年間に渡って中欧に君臨した末についに崩壊をした。
ハプスブルク帝国の時代は、皇帝と貴族、そしてブルジョワジー(有産階級)が君臨し統治する国家であり、文化もまたおなじくであった。歴史様式の豪壮で、かつ華麗な建築群は、君臨する皇帝以下の有産階級の権威を象徴していた。
帝国の後半期、ウィーンの都心部を取り囲む防御土塁が皇帝ヨーゼフの勅命によって取り除かれ、そこにリンクシュトラーセ(環状道路)が造られた。
このリンクシュトラーセには、帝国の国家機関、市役所、大学、教会などが新たに建設された。さまざまな歴史様式で造られた豪壮な建物は、有産階級の権威を象徴するステージであった。そして、ここから世紀末の序章が始まっていく。
世紀末になると「ウィーン分離派」と呼ばれる、新たな芸術表現を試みる集団が現れていた。また建築の分野では、オットー・ワーグナーに代表されるユーゲントシュティール建築の名作の数々が建てられた。
この革新的な芸術集団は、やがてくる20世紀に花開く革新芸術を先駆けていた。そして帝国崩壊後、この集団の影響を受けた一群の建築家たちは、集合住宅のユートピアを目指し新たな建築群を誕生させることになった。
世紀末のユーゲントシュティール建築
カールスプラッツの駅舎/オットー・ワグナー
ハプスブルク帝国の末期、ウィーンの世紀末では、爛熟化した文化と退廃のムードが蔓延していた。一方、新たな動きも起きていた、それが「ウィーン分離派」というクリムトを中心とした革新的な芸術運動であった。
帝国のアイデンティーである歴史様式とは違う、その芸術運動は世紀末の退廃性と重なるようにして物議を醸し出していた。しかし、その革新性は後の革新的芸術を先駆けて、新たな息吹の土壌を用意していた。
建築の分野では、数々の歴史様式の建築が並び立つウィーンに新しい潮流が生まれていた。それが、オットー・ワグナーを中心とするユーゲントシュティール建築である。
ユーゲントシュティールと現代
ユーゲントシュティール建築も、ゴシックやバロックの建築と並んで、ウィーンの街並みを構成する本質的な要素です。オットー・ワーグナー、ヨーゼフ・ホフマン、アドルフ・ロース、ヨーゼフ・マリア・オルブリッヒなどの著名な建築家が、19世紀末から20世紀初頭にかけて、セセッシオン、郵便貯金会館、ロースハウスなど、世界的に名高い建築の数々を設計しました。
ユーゲントシュティール建築は、幾何学構成を基本に機能的かつ優美なデザインが特徴となっていた。歴史様式の他を圧倒する建築と違い、どこか人間にやさしい趣が感じられた。それは建築が、帝国の象徴から脱皮する様相を示していた。
その建築を特徴づけていたのは装飾的要素にあり、とくに外壁部分には大理石、ガラス、タイル、金属、カラフルな漆喰装飾、金色などが用いられて、とてもエレガントな雰囲気を濃厚に漂わせていた。
しかし、その装飾性を取ると機能的な近代建築に通じる骨格が現れてくる。それはまるで、後のモダン建築の登場を予期していたように思われる。
このユーゲントシュティール建築は、いまではウィーンの観光名所にもなっている。とくに、セセッシオン、郵便貯金会館、ロースハウスなどが有名となっています。いずれも、オットー・ワグナーの設計である。
1918年、第一次世界大戦の敗戦とともに帝国は崩壊し、ユーゲントシュティール建築もおなじ運命となっていきます。そして、次の時代に現れたのが、ワグナーの薫陶を受けた建築家たちによる赤い時代の集合住宅の試みでした。
マジョリカハウス/オットー・ワグナー
<ユーゲント・シュティールとは>
1896年に刊行された雑誌『ユーゲント』(Die Jugend) に代表されるドイツ語圏の世紀末美術の傾向を指す。「青春様式」と表記されることもある。
ユーゲント・シュティールは、「構成と装飾の一致」を理念とし、美や快楽と実用性を融合させることを主たる目的としていた。(参考:ウィキペディア)
赤いウィーンの建築群
カール・マルクス・ホーフ
1918年、帝国が崩壊するとオーストリアには新しい政権が誕生した。
1917年のロシア革命は、世界中の無産階級を勢いづけました。オーストリアでも敗戦と同時に革命が起きて皇帝は退位し亡命せざるを得なかった。そして社会民主党とキリスト教社会党連立の第一共和国が樹立された。
首都ウィーンでは、社会民主党が統治し「赤いウィーン」と後にいわれる時代を迎えていた。それは、1934年にナチスドイツに併合されるまで続きました。
この「赤いウィーン」の時代(1918〜1934)を統治した社会民主党は、労働者の住宅確保を急務として、環状道路沿いに次々と集合住宅を建設していきます。
<無産階級とは>
端的には労働者。生産手段をもたず,自らの労働によって得た賃金で生活している階級。有産階級は、王族、貴族、資本家、地主など多くの資産を所有する階級を指す。
公共住宅と工作連盟住宅
1920年代のウィーンにとって、かつての王朝内諸国からウィーンに移住した労働者層に公共住宅を提供するのが焦眉の急務でした。当時建てられた公共住宅には極めて大規模なものも含まれ、今やウィーン市街に欠くことのできない存在となっています。
この時代に建てられた建築群は、いまでは「赤いウィーンの集合住宅」として存在感を発揮しています。その多くは、1920〜30年代に建てられています。モダン建築が登場した時代であり、ウィーンの集合住宅もその影響下にあるようです。
革命でソ連となった旧ロシアでは、革命芸術といえるロシアアバンギャルドが革新的な表現を繰り出していました。ところが、革命が落ち着いてくると先鋭的だとして弾圧されるようになり、やがて姿を消していきます。
しかし、おなじ社会主義政党下にあったウィーンでは、革新性のある建築が弾圧されることなく積極的に建設されました。それは、かつての分離派の流れにあるオットー・ワグナーの薫陶を受けた建築家たちが設計にあたっていたからでした。
この「赤いウィーンの集合住宅」は、かつてのユーゲントシュティール建築の装飾性を省いたような趣を漂わせています。それは機能的で合理的というモダン建築が定義したものに通じるものでした。
代表的なウィーンの集合住宅である「カール・マルクス・ホーフ」は、全長が1.2キロ(住戸の数は、約1400戸)にも及ぶ壮大な建築物となっています。その景観が圧倒的な存在感を発揮しているのは言うまでもありません。
「赤いウィーン」の時代に建てられた住宅は、1923年から1934年までに約6万3千戸を数えるといわれます。いかに急ピッチで建設されたかが分かります。
しかし、この「赤いウィーン」の時代も終焉を迎える日がやってきた。オーストリアでは、親ナチスであるファシスト政権が誕生し、ウィーンは弾圧を余儀なくされた。さらに、ナチスドイツのオーストリア併合によって止めを刺されました。
第二次世界大戦でオーストリア・ウィーンも爆撃に晒されて甚大な被害を受けました。
しかし、ウィーンの人々は被害を受けた建築を復活させて、現在に残る景観を取り戻しました。オーストリアに限らず、大戦後の欧州各国では破壊された歴史ある建造物や街並みの復興に力を注いでいます。
「赤いウィーンの集合住宅」もおなじく、メンテナンスが施されて現在もなお現役の集合住宅として利用されています。もうすぐ竣工から100年も近いが、それを超えてもきっと残されていくに違いないでしょう。
それはウィーンの住民の意識の高さゆえのものと思われます。かつて労働者が政治の実権を握り、英知を結集して都市の住宅のあり方を考え、そして造り上げた集合住宅の価値をよく理解しているからと思われます。
それを考えると、日本の集合住宅のおかれた現状はさびしい限りだ。どれも画一的で似たような建築ばかり、タワーマンションも他のマンションもどうせ50年と経たずに建て替えとなるだろう。しかも敢えて残す価値もない、それが現状である。
マルガレーテンギュルテンの集合住宅
サイドライテンホーフ
工作連盟団地
参考:ウィーンへようこそ
https://www.wien.info/ja
写真引用:上におなじく
冒頭写真:セセッシオン(分離派会館)
引用:https://www.wien.info/ja/sightseeing/architecture-design/art-nouveau
集合住宅: 二〇世紀のユートピア (ちくま新書)
二〇世紀に建設された集合住宅は、庶民に快適な生活をという強い理念に支えられていた。ウィーン、パリ、軍艦島。世界中に遺されたユートピア計画の軌跡を追う。
コメント