寺山修司と演劇実験室「天井桟敷」その演劇世界を再構築して紹介!貴重な証言、資料、写真等も収録。
何故、彼女は時計をとめてと歌うのか!
先日、映画「探偵はBARにいる」をDVDで観たのである。なんと、そこにはカルメン・マキが出ていた。最初は見過ごしたが、エンディングで彼女の歌う「時計をとめて」が流れたのである。
ここでようやく気づいた次第であった。なにしろ、彼女は映画の冒頭部分にちょっと顔を見せただけだったのである。
まだ現役であるのも知らなかった。元気そうであるし、雰囲気もロックをやってた頃のイメージをかなり濃厚に残していた。現在でもロックをやってるのだろうか。
彼女のことを詳しくは知らないが、60年代のアングラ・シーンについて書いた本に、新宿の風月堂や彼女のことが書かれていたのを思い出した。
個人的には、60年代という時代を生きてはいたが、アングラなどを実体験できる世代ではなかったのである。
しかし、何故か、あの過激な時代を懐かしく感じるのである。
時計をとめて カルメン・マキ 「探偵はBARにいる」エンディング曲
60年代後半、アングラ文化が咲き乱れた
カルメン・マキ=アングラと考えるのは古いのだろうか。彼女は、70年以降はロック・バンドを結成し活動していたから、アングラとはもう決別していた。
個人的に微かながら覚えているのは、長いストレートの髪とパンタロン姿で「時には母のない子のように」を歌う姿であった。当時はまだ知らなかったが、後に寺山修司が主催する「天井桟敷」に在籍していたのを知った。
当時の彼女のイメージは、アングラのミューズとして寺山がプロデュースしたようである。そこでの彼女は、気怠い雰囲気を漂わせていたように記憶している。しかし、これは当人の意思ではなかったようだ。
70年代になると寺山の劇団から離れた。
ちなみに、彼女はデビュー当時17歳であったそうだ。
カルメン・マキ 時には母のない子のようにのジャケット写真
これで17歳?らしい。
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上記した「時計をとめて」の原曲は、ジャックスというバンドが1968年頃に出したシングルのカップリング曲として収録されている。
ちなみに、マキの「時には母のない〜」も同じ頃であった。このジャックスは、当時の音楽シーンでは特異な存在であったらしい。当時は、グループサウンドとフォークソングが全盛であったが、かれらはそのどちらでもなく、日本オリジナルのロック?を目指していた。
また、そのスタイルもアングラ的であり、フラワームーブメントやサイケデリックといった要素と趣きもあった。後にはハッピーエンドなどと共にその個性が再評価されたが、当時は早すぎてあまり売れなかったようだ。
そのため60年代後半には解散している。それでも、かれらは次の時代への道筋を付けたバンドだったようだ。
60年代後半、「天井桟敷」「状況劇場」などのアングラ劇団と呼ばれた演劇集団が活況であったそうである。アングラとは、アンダーグランウンドの略であり地下的活動、反権威主義という意味のことである。
端的にいえば、既成概念に囚われない自由な活動を目指していた。前述した寺山修司の「天井桟敷」は、渋谷に本拠となる劇場があった。後に麻布十番に移転した。一方、唐十郎率いる「状況劇場」は、テントを建ててそのなかで芝居をした。
色が赤だったので通称紅テントとも呼ばれた。新宿の花園神社や上野不忍池での芝居が有名である。このふたつ以外にも多数のアングラ劇団が活躍したそうである。その活動は70年前後が、最も活気があったようだ。
そのようなアングラの時代を象徴するかの如く登場したのが、カルメン・マキであった。しかし、それはほんのつかの間であった。
70年代に入ると、アングラも徐々にその活気を失っていく、そしてカルメン・マキも天井桟敷を去ったのであった。
以下は、寺山修司の演劇関連本と映画の代表作、「時計をとめて」が収録されたジャックスのアルバム!
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