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60年代|「和製ポップスの誕生」洋楽の衝撃と多様なジャンルの誕生

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1960年代 和製ポップスの誕生

進駐軍が残した大いなる遺産
 1945年の終戦後、駐留軍(GHQ)となった米軍は、日本の文化をコントロールし、多くの娯楽を提供して大衆の関心を政治に向けさせないようにしました。これを3S政策といいます。そして、多くのアメリカの娯楽が日本に輸入されました。

 ちなみに、連合国(アメリカ)による占領は、1945年9月2日に始まり、1952年4月28日にサンフランシスコ平和条約が発効したことで終了しました。この期間は約6年8ヶ月間でした。

 映画館、ダンスホール、キャバレーなど娯楽施設の充実が奨励されて、多額の予算も充当されました。音楽の分野では、ジャズ、ハワイアン、ラテン音楽などがラジオや、舞台などを通して日本人に聴かれる様になっていきました。

 1950年代〜1960年代は、第二次世界大戦後のアメリカ文化の影響を強く受けて「歌謡曲」が多様化し、そして洋楽の影響を強く受けた「和製ポップス」が誕生し、現代のJ-POPに繋がる基礎が築かれた変革期でした。

和製ポップスとは
 ここでいう和製ポップスの意味ですが、洋楽の影響を強く受けた日本人によるオリジナル曲ということになります。原曲に日本語歌詞をつけたものはカバーポップスといいます。ポップス自体は、海外の大衆音楽、または流行音楽を意味しています。

和製ポップスの序章 1950年代/洋楽カバーとロカビリーの登場

カバー・ポップスの流行
 戦後のアメリカ進駐軍放送(AFN)などを通じて洋楽、特にアメリカのポップスが大量に入ってきました。

 初期の和製ポップスは、欧米のヒット曲に日本語の歌詞をつけて歌う「カバー・ポップス」の形が中心でした。(例: 浜村美智子「バナナ・ボート」、ザ・ピーナッツ「可愛い花」など)

 これらは従来の日本の歌謡曲とは異なる、軽快なリズムとモダンなサウンドが特徴でした。

ロカビリー・ブームの勃興
 1950年代後半、エルヴィス・プレスリーに代表される「ロカビリー(ロックンロール)」が日本でもブームとなります。平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎、坂本九(初期)などがロカビリー歌手として活躍しました。

 ロカビリーは、R&Bから派生したロックンロールと、白人のカントリー(ヒルビリー)音楽が融合したものでした。このブームは、日本の若者文化に大きな衝撃を与え、後の日本のロック音楽の源流の一つとなりました。

 この当時バンドの演奏家として活躍したミュージシャンから、60年代以降に芸能プロダクションを設立し、現在では大手となった芸能プロに、渡辺プロ、ホリプロ、田辺エージェンシーなどがあります。

和製ポップスの誕生 1960年代/独自のポップスの確立とGSブーム

独自のポップスの確立
 1960年代に入ると、カバーだけでなく、日本の作曲家(中村八大、宮川泰、筒美京平など)が洋楽のエッセンスを取り入れつつ、多くの日本人が共感できるようなメロディを持つ「オリジナルの和製ポップス」を多く生み出しました。

 坂本九の「上を向いて歩こう」(1961年)は、日本国内でのヒットに留まらず、”Sukiyaki”のタイトルで全米チャート1位を獲得し、世界的に成功を収めた代表例です。ザ・ピーナッツは、「ふりむかないで」(1962年)、「恋のバカンス」(1963年)など、抜群の歌唱力で、洋楽的なオリジナル曲をヒットさせました。

 さらには、伊東ゆかり、中尾ミエ、園まりといった歌手(スパーク3人娘)が、モダンで洗練されたポップスを歌い人気を集めました。

 また、加山雄三(俳優、歌手)が、映画「若大将シリーズ」で人気を博し、同時に劇中で歌う自作の楽曲「君といつまでも」「夜空の星」(1965)などが大ヒットしました。

ザ・ピーナッツ
 伊藤エミさんと伊藤ユミさんという双子の姉妹による歌手デュオです。1959年にデビューし、「恋のフーガ」や「恋のバカンス」などのヒット曲で知られ、歌手活動のほか女優としても活躍しました。略称は「ピーナッツ」で、累計シングル・LPの売上は1000万枚以上です。

歌謡ポップスが大ヒットする
 和製ポップスが大衆に認知されてくると、歌謡曲ともポップスとも言い難い楽曲が増えてきた。それは歌謡ポップスといわれた。和製ポップスとの違いは、歌謡曲特有の抒情性が強く残り、純粋なポップスとは言い難いものだった。(和製ポップスと歌謡ポップスは同じ意味で使われる場合がある)

 しかし、そこが日本人の琴線に触れて(心に響く、胸を打つ)、大ヒットする曲が生まれた。「君といつまでも」加山雄三(1965)は、60年代の国内最大のヒット曲(約350万枚)といわれている。なお、「上を向いて歩こう」坂本九(1961年)は、全世界で1500万枚以上を売り上げたそうである。

1960年代/和製ポップス・歌謡曲売上ベスト10(シングル)
1位 君といつまでも 加山雄三(1965年/約350万枚)
2位 いつでも夢を 橋幸夫・吉永小百合(1962年/約260万枚)
3位 星影のワルツ 千昌夫(1966年/約250万枚)
4位 黒ネコのタンゴ 皆川おさむ(1969年/約223万枚)
5位 恋の季節 ピンキーとキラーズ(1968年/約208万枚)
6位 上を向いて歩こう 坂本九(1961年/約150万〜200万枚)
7位 ブルー・シャトウ ブルー・コメッツ(1967年/約150万枚)
8位 ブルー・ライト・ヨコハマ いしだあゆみ(1968年/約150万枚)
9位 世界の国からこんにちは 三波春夫(1967年/約140万枚)
10位 こんにちは赤ちゃん 梓みちよ(1963年/約120万枚)

グループ・サウンズ(GS)の全盛
 1960年代中期〜後半にかけて、ビートルズやローリングストーンズなどの世界的なロック・バンドの影響を受け、日本独自のバンド形式の音楽である「グループ・サウンズ(GS)」が大ブームとなりました。

 ザ・タイガース、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ、ザ・スパイダース、ザ・テンプターズなどが人気を博しました。
 GSは、ビートルズなどのロックンロールに強い影響を受けて登場しましたが、日本の歌謡曲的なメロディも併せ持つという特徴がありました。

 なぜならば、海外のロックバンドが自作自演なのに対し、GSは歌謡曲の作詞、作曲家が音楽制作を担当していたからです。(一部例外あり)アーティストが自ら作詞や作曲をして演奏するのは、70年代まで待たねばなりませんでした。

フォークソングの台頭
 1960年代後半には、アメリカのプロテストソングやフォークソングの影響を受け、森山良子「この広い野原いっぱい」(1967)や、ザ・フォーク・クルセダーズ「悲しくてやりきれない」(1968)などに代表される「フォークソング」が広がり、社会的なメッセージや個人的な心情を歌うスタイルが若者から支持を集めました。

 このフォークソング・ブームは70年代になり、吉田拓郎などのシンガーソングライターを誕生させて、日本の大衆音楽の世界に変革を起こしました。

 この様に1960年代は、洋楽を模倣する段階から、それを日本独自の形で消化し、後の「ニューミュージック」や「J-POP」へと繋がる多様な音楽ジャンルの基盤を築いた、極めて重要な時代でした。

参考文献:「日本の流行歌」、ウイキペディア、AIジェミニほか

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