大義のない米軍兵士は、麻薬とロックと共に戦った
アメリカは、ベトナムで泥沼の戦争に嵌まってしまった
19世紀後半、フランスはインドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)を植民地として過酷な植民地統治を行っていた。1940年、日本軍がインドシナに侵攻しフランスを駆逐し占領する。1945年、日本敗戦。それを機に再びフランスはインドシナの植民地化を取り戻すべく活動を開始する。
1945年、民族自立を目指すホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)が独立を宣言する。1949年、フランスがベトナム国を樹立。アメリカ。イギリスなど西側約30カ国がこれを承認する。一方では、1950年、中国、ソ連、北朝鮮が北ベトナムを承認する。
ここに対立の構図がはっきりとする。フランスを後押しする西側陣営、そして自主独立の通称ベトミン(北ベトナムと解放勢力を差す、またはベトコン)をあと押しする東側陣営(共産主義勢力)とに別れた、いわば代理抗争の場となってきた。
アメリカは、インドシナが赤化するのを恐れたが、フランスはもはや戦争を続けることがままならない瀬戸際まで追い込まれていた。戦費負担が拡大するにつれ国際収支が悪化し経済的にも苦境に陥っていた。
1953年、フランスは起死回生の大攻勢を仕掛ける。これはベトミンの配給路を遮断する目的でベトナム北西部ディエンビエンフーで行われた。しかし、1954年、ベトミンの総攻撃にフランス軍1万6千人は持ちこたえられず敗退する。そして多くのフランス兵が捕虜となった。
これをきっかけに1954年、休戦が成立した。ベトナムは南北に分断されたまま一旦は落ち着いた。アメリカは、フランスの影響力を排除して南ベトナムに親西側陣営の政権を樹立した。
1959年、北ベトナムは武力による祖国統一を決意していた。
そして、いよいよ泥沼の1960年代へと突入していく。1961年、アメリカではケネディ大統領が就任した。ケネディは東西対立の構図の中へ、否も応もなく引き摺りこまれていた。アメリカはベトナムへの米軍事顧問を1万6千人までに増やした。
1963年11月、ケネディ暗殺される。あとを引き継いだジョンソン大統領は本格的にベトナムに介入していく。1965年、悪名名高い「北爆」が開始された。そしてアメリカが派遣した米軍の兵力は、最大で54万人までに達していた。
1968年、北ベトナムと解放勢力による「テト攻勢」により、アメリカは戦意を挫かれる。その後はアメリカ国内で厭戦気分が満ちてきて、もはやいかに撤退するかが問題となってきた。
1973年、パリ協定により和平が実現。アメリカはベトナムから撤退する。事実上の敗北であった。1975年、サイゴンが陥落した。これによって北ベトナムと解放勢力による祖国統一が成立した。そして、現在に至る。(現・ベトナム社会主義共和国)
アメリカは、ベトナムに本格介入して約8年、それ以前のフランスへの支援などを含めれば20年以上に渡ってベトナムに介在してきた。アメリカが費やした戦費は、少なくても1500億ドル(当時)、関連経費を含めると2600億ドルになる。ちなみに、現在の貨幣価値にすると5千億〜6千億ドルに相当する。
<米軍の投下爆弾量>
・1400万トン以上(第二次大戦/610万トン、朝鮮戦争/311万トン)
<ベトナムの被害>
・被害額/3500億ドル以上
・戦死傷者/300万人以上
・民間人死傷者/400万人以上
・難民/1000万人以上
<比較/日本の太平洋戦争>
・戦死者数/233万人
・民間人/65万人
地獄の黙示録 完全版予告篇
ベトナム戦争と麻薬とロックの関係式
CCR「雨を見たかい」(上の動画)、これは空爆を題材にしたといわれる(爆弾を雨に見立てているとか、なお作者本人は否定しているが)
死と隣り合わせにあった麻薬とロック音楽
旧ソ連が崩壊したいまでは、いったいなんのためにと思うばかりであるが、当時のアメリカは本気でアジアの赤化を恐れていたようだ。本格介入し始めた1963〜5年頃の米軍は、勝てると思っていたはずである。最新鋭の武器、戦闘機、爆弾など北ベトナムとは雲泥の差があった。
ところが、北ベトナムと解放勢力は、地の利を最大限に活かす戦法で米軍を翻弄し続けた。米軍はまるで何か罠に嵌まったかのように、続々と戦費を投入していた。いくら爆弾を投下しても、一向に戦火は収まらずそれどころかますます悪化していく、という悪循環に陥っていた。
現地で戦う兵士たちは、もはや大義なんてどこへやらである。目的があるようで実はないに等しいベトナムでの戦いにうんざりしていた。
そして、そんな兵士を癒していたのが麻薬であった。大麻やLSDなどが欠かせない戦場、それがベトナム戦争の現実であった。一方、北ベトナムには民族自立という大義があった。その差は想像する以上に大きいはずである。
ベトナム戦争以後、麻薬はアメリカの災厄の種となっていく。いまでも、その解決の行方は要と知れない。
また、麻薬とともに兵士を癒したのがロックミュージックであった。ロックだけではなかったかもしれないが、多く流されていたのは間違いないだろう。当時の米軍には、駐屯部隊向けにラジオ放送が行われていて、そこから絶えず音楽が流されていた。この様子は、多くの映画等で再現されている。
有名なのは、「地獄の黙示録」のなかで海軍哨戒艇の乗員である黒人の若い兵士が、ラジオから流れるストーンズの「サテイスファクション」で踊る様子である。ちなみに、この若い兵士役は後に「マトリックス」で有名となったラリー・フィッシュバーンの十代の頃であった。
ベトナム戦争当時のアメリカでは、多くの反戦を意図した音楽が作られていた。それらの多くが、政府の介入を恐れて抽象的な表現をしていたが、まぎれも無く反戦歌であった。有名なのはいくつかあるが、当方はやはりCCR(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)の音楽が印象深い。
「地獄の黙示録」でも使われているし、いまでもベトナムを想起させる映像ではCCRがよく使われるようだ。また、ウッドストックでのジミー・ヘンドリクスによる「アメリカ合衆国の国歌」の演奏も忘れ難いものがある。それはまるで、爆弾を投下したような響きをしたものだった。
ソウルの大御所マーヴィン・ゲイが、実弟のベトナム体験を聞いて「一体どうなってるんだ」と歌った『ホワッツ・ゴーイン・オン』も有名である。
1969年に行われたウッドストック・コンサートは、初の大規模野外コンサートであると同時に、激しいベトナム戦争下で行われた平和の祭典でもあった。したがって、そこには切羽詰まった末の開放感を味わうという空気感が感じられる。
それは気のせいかもしれないが、参加したミュージシャンはいずれも只ならぬ雰囲気と覚悟を漂わせている。それは迫力となって伝わってくる。
ベトナム戦争時の興味深い音楽は他にも多数あると思われるが、このページではこれぐらいにしときます。興味の有る方はネットで検索してみてください。
それから最後に申し伝えしときますが、当方はリアルタイムではなく少し後になってから当時の様子を映画や書物で知りました。ご了承ください。
冒頭動画:『フール・ストップ・ザ・レイン』
空爆を雨に喩えて「誰がそれを止めるのか」と訴える。
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