パスワードは一万年愛す。タイムレスなスタイルは、過去も未来も時を超えてゆく!

時代と流行|1989年 新しい世界秩序がはじまる

この記事は約9分で読めます。

1989 大きな時代の転換点

 80年代(とくに中頃以降)の日本は、ジャパン・アズ・ナンバーワンといわれて、世界の注目を集めていた。その成果のベースは、実はバブルの恩恵だったのは今更いうまでもない。1989年、そのバブルは頂点に達した。

 1989年12月末、日経平均株価は、終値の最高値38,915円をつけてピークに達する。しかし、翌年以降は株価は下がり続けていく。

 その背景には、過剰な土地関連融資を抑制する「総量規制」の発動、さらに日本銀行による金融引き締めによる、信用収縮が一気に進んだことにあった。

 1991年3月(諸説あり)、日本のバブルはついに崩壊する。そして、バブルの夢のあとに残された膨大な負債処理に追われることになった。

 その後に起きた様々なできごとは、バブルの時代の日本が、まるで夢幻しの架空のできごとだったように思わせるコトばかりだった。

 1989年は、日本の大きな転換点のひとつであったのは間違いないが、一方、世界でも大きな動きが相次いだ年でもあった。

 共産主義を主導したソ連の崩壊序章となったベルリンの壁崩壊、そして冷戦の終結があった。さらには、中国では六四天安門事件が起きている。

 ちなみに1989年は、昭和天皇の崩御(89年1月)により、昭和が終わった年であった。そして翌年以降、日本経済の収縮がはじまっていく。

天皇崩御と昭和の終わり、平成がはじまる

 1989年(昭和64年)1月、昭和天皇が崩御した。そして、新天皇による平成時代が幕を開けた。このとき、まだバブルは弾けていない。

 そんな1989年の日本の様子を伝説のマーケティング情報誌アクロス(パルコ出版)の特集から一部引用してご紹介いたします。

<1989年の主なできごと/日本>
昭和天皇崩御、平成はじまる
福岡・アジア太平洋博開催
横浜博開催
名古屋世界デザイン博開催
参院選で社会党圧勝
女子高生コンクリート詰め殺人事件
幼女連続殺人事件/犯人・宮崎勤逮捕
三菱地所/ロックフェラーセンター買収
商業、文化施設:
国分寺丸井、マイカル本牧、池袋WAVE、調布パルコ、東急文化村、幕張メッセ

<世相・流行>
吉本ばなな現象
ニューリッチ
渋カジ
Hanako
デューダ
時短
大国の興亡
マドンナ
セクシャルハラスメント
24時間戦えますか

80年代は、創費の時代
 上記したアクロスでは、80年代の消費行動を「創費」と位置付けた。それは、当時の人々の「ニーズとウォンツ」に基づく行動原理から名付けられたものだ。

「ほしいものが、ほしいわ」という、有名なコピーがあった。それは、まさに創費という行動を端的に表した名文句だった。

 現在はどうだろうか、若者の可処分所得が大幅に減り、アパレルなどファッション業界は、青息吐息だそうだ。ニーズは、安価と丈夫であることが主流となり、ウォンツは減退したままである、創費とはかけ離れた現状である。
画像引用:https://www.jointnetwork.net/cliant/magazine/list/issue173.html

中国の黒歴史、六四天安門事件

 1989年6月4日、北京・天安門広場において民主化を求めるデモ隊に対し、軍が武力行使し多数の死傷者を出した事件。日本では、通常「天安門事件」いわれるが、正式には「六四天安門事件」というそうである。

 ソ連でペレストロイカによる民主化が進むなか、おなじく一党独裁が続く中国でも、1986年5月に中国共産党中央委員会総書記の胡耀邦が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進、国民から政治改革への期待や支持が高まった。

百花斉放・百家争鳴とは
1956年から1957年に中華人民共和国で行われた政治運動。
「例え中国共産党に対する批判が含まれようと、人民からのありとあらゆる主張の発露を歓迎する」という主旨の内容であったが、のちに撤回され、共産党を批判した者はその後の反右派闘争で激しく弾圧された。

1987年 胡耀邦、総書記を退陣する

 しかし、総書記の胡耀邦は、1987年には鄧小平ら党内の長老グループを中心とした保守派によって退陣させられる。理由は、90年にソ連で起きたクーデターと同じく、共産党の権力基盤の喪失を危惧したからだった。

 ソ連では、保守派のクーデターは失敗したが、中国では改革派が失脚した。

 1989年4月、前総書記の胡耀邦が死去した。これをきっかけに、学生らによる民主化を求めるデモが発生する。新総書記の趙紫陽は学生の改革要求を「愛国的」であると評価し、同情する様子を見せていた。

1989年4月 前総書記・胡耀邦が死去、デモが頻発する
1989年5月 戒厳令が布告される

 次第にデモは拡大し、50万人近くになり、もはや警察でも抑制できなくなっていた。5月、ソ連総書記のゴルバチョフ訪中、天安門での歓迎式典は中止される。

1989年6月4日 軍が投入される、六四天安門事件が起こる

 1989年6月4日、人民解放軍の装甲車を含む完全武装された部隊が、天安門広場において民主化要求をする学生、民衆に対して投入された。その後、共産党指導部の命令で、学生、民衆に対し発砲を含む武力行使を行ったとされる。

 軍によるデモ隊への武力行使による死傷者数は、数百人から数万人に及ぶなど、複数の説があり、死者数は定かではない。

 ちなみに、中国共産党の公式発表では、「事件による死者は319人」となっている。

民主改革派の失脚と管理統制の強化
 天安門事件後、趙紫陽はじめ改革派は失脚し、情報統制が強化されると同時に、共産党一党独裁体制が強化されてゆく。

 現在の中国では、管理体制がより強化されて、国民のプライバシーや自由が制限されて久しい。中国全土に監視カメラが設置されて、国民の動向をいつも監視している。これはある意味では、中国共産党の不安の裏返しではないか。

 ソ連がたどった道を省みると、無理からぬことではあるが…。
 

 2019年5月29日、当時在中華人民共和国日本国大使館にて情報収集を統括していた笠原直樹1等陸佐よる詳細なメモが残っていたことが分かった。

 それによると、死傷者数は不明であるが、「実弾発射はほぼ間違いない」、「解放軍による射撃にて市民が逃げ出す」、「戦車が射撃しながら天安門広場に突入し、広場にいた学生を一掃」など書かれており、血まみれで倒れる女性の姿、装甲車にてひき殺されたり、当時の流血の北京の状況が判明した。

ソ連解体はじまる、ベルリンの壁崩壊と冷戦終結

1989年、東西冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊する

 ロシア革命から約70年を経て、世界共産革命の目論見は、風前の灯火状態となった。この後、91年にはソ連共産党は解散、そして連邦解体と繋がってゆく。

 1917年、ロシア革命が勃発し、約300年余り続いたロシア帝国(ロマノフ朝)が瓦解した。この革命であるが、ドイツが戦争中であったロシアを崩壊させるため、レーニンを送りこんだという説がある。(信憑性は定かではない)

 革命時ドイツにいたレーニンは、ロシアに帰国しボリシェビキのリーダーとして活動しだす。そして革命勢力のなかで勝ち抜き、ソビエト連邦を成立させる。

1917年 ロシア革命
1922年 ソビエト社会主義共和国連邦の成立
1924年 レーニン死去、そのあとスターリンが指導者となる

 レーニン率いるロシア共産党は、「農民と労働者が同盟して民主化し、そのあと社会主義革命を目指す」としていた。しかし、実際は農民と労働者は置き去りにされて、共産党員による中央集権的、かつ閉鎖的で非民主的な組織となった。

 レーニン死去後、指導者となったスターリンは、党による中央集権化をさらに推し進めて、いわゆる独裁体制を築いてゆく。

 権力を握ったスターリンは、政敵を次々と粛清し独裁体制を磐石とした。1939年、第二次世界対戦が勃発すると、いったんはドイツと不可侵条約を結ぶが、ドイツの侵攻によって、ソ連は否が応もなく参戦を余儀なくされる。

 ヒトラー率いるナチスドイツは、勢いに任せてソ連領内に攻め込むが、やがて冬の訪れと物資の不足に至り、かのナポレオンと同じ運命をたどる。

 ナチスドイツに勝ったソ連は、その後連邦領土の拡大を図ってゆく。そして、指導者スターリンの偶像化が進んで、スターリンは唯一無二の独裁者となった。

 世界共産革命を目指すソ連は、西側陣営とあいだに冷戦構造を築いてゆく。ドイツは、東西に分断されて、ベルリンにはやがて東西を隔てる壁が築かれた。

 ソ連国内では、思想統一と管理体制の強化が進み、さらに密告制度が奨励されて人民は恐怖に怯えながら過ごすしかなかった。

 一時期、ソ連は国内総生産でアメリカに次ぐ世界2位になったが、徐々に無理な体制が綻びはじめて、85年に指導者となったゴルバチョフは、疲弊する体制と経済危機を打開するため「ペレストロイカ」(改革)を実行してゆく。

 そして、一党独裁体制の民主化がはじまった。1988年、ソ連初の民主的選挙である第1回人民代議員大会選挙が実施された。

 しかし、時はすでに遅く、国民の間では民主化の要求が拡大していた。


画像引用:https://eiga.com/news/20110904/3/

1989年 ベルリンの壁崩壊、民主化へ

 1989年、東ドイツのベルリンの壁が崩壊、民主化がはじまる。翌年以降、ハンガリー、チェコスロバキア、ポーランドなどが民主化する。

 1990年、ソ連はついに一党独裁体制を放棄する。その後、ゴルバチョフは連邦の権限を各共和国に大幅に移譲し、主権国家の連合として連邦を再編するという新構想に基づく、「新連邦条約」を締結するため各共和国との調整を進めた。

 しかし、権力基盤の喪失を危惧した旧体制側によるクーデターが勃発し、ゴルバチョフは軟禁される。エリツィン(のちのロシア大統領)ら改革派はそれに抵抗し、国民や軍もそれに加担した。その結果、クーデターは失敗した。

 その後、ゴルバチョフは共産党書記長を辞任し、同時に共産党中央委員会を解散、さらにソ連最高会議は、ソ連共産党の活動を禁止する決議を採択し、同党は事実上の解体に追い込まれた。

 ソ連共産党が解体されたことで、連邦各国を統括する組織はなくなり、実権は各共和国の元首から構成される国家評議会に移った。ロシア、ウクライナ、白ロシア(ベラルーシ)が連邦を離脱して、新たに独立国家共同体(CIS)を創設した。

 ゴルバチョフ大統領は、1991年中に連邦政府が活動を停止することを宣言。その後、大統領を辞任、最高会議も連邦の解体を宣言、ソビエト連邦は崩壊した。

1991年 ソビエト連邦が、崩壊する

 現在、ロシアでは、民主化よりもプーチン大統領による独裁体制が強化されている。ふたたびいつか来た道をたどるのか否か、それが注視される。

参考文献:
真実の中国史、スターリン、アクロス、ウィキペディアほか

スターリン – 「非道の独裁者」の実像 (中公新書)

コメント