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時代と流行|ココ・シャネルのモード革命 アンチ・ゴージャスのファッション

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モードの革命家ココ・シャネル

 「シャネル」といえば、高級ファッションブランドの代名詞である、と言っても過言ではない。そのオートクチュールは、富裕層が多く愛用するブランドであり、またそのイメージに憧れて一般層も口紅やバッグ、香水などを購入している。

 現在でも燦然と輝くシャネルは、当然のように創業者であるココ・シャネルの功績によって成り立っている。そのシャネルの功績はなにかといえば、それはモードに革新をもたらしたことに他ならない。

 シャネルは、第一次世界大戦(1914-1918)が始まる頃に洋服を作り始める。それまでは帽子を作り販売していた。当時、富裕層の女性たち(愛人含む)は、豪華な素材を惜しげもなく使用した装飾過多な装いが主流であった。

 そのような華美なファッションは、自己顕示欲を見せびらかすための衣装といえた。シャネルは、それに反発し真逆の発想をもってモード界に参入していく。

 例えば、馬場の厩務員の肌着からヒントを得たといわれるジャージーや、男性服に多く使われたツイードなどを女性服に取り入れている。

 シャネルにとって、当時のモード界の常識は破壊すべきものでしかなかった。

<シャネルの革新>
・肌着だったジャージー素材をメインに取り入れる
・男物だったツィード素材を女性ファッションに取り入れる
・黒一色のリトルブラック・ファッション
・スポーティかつシンプルなシャネルスーツ
・模造宝石を使ったジュエリーの発明
・リップスティックの発明
・ショルダーバッグの発明
・ショートカットのヘアースタイルを流行らせる、など


画像引用:https://ameblo.jp/natsu-k19880219/entry-11946152391.html
冒頭の画像引用:http://goodstory.biz/thinking/2769/attachment/071caa5de08ed4929e0530fb7006ba7e/

シャネル曰く、モード、それはわたしよ

 シャネルは、モードの革命家であったと同時に稀代のマーケターでもあった。数々の名言を残しているが、その内容がなかなか興味深い。なんとなくアップルのスティーヴ・ジョブズが似ているような気もするがいかに。

 シャネルとジョブズが似ている点は、ともに市場創造型であったことだ。顕在化しているニーズではなく、潜在化にあるシーズに果敢に挑戦し、そして新しい市場を開拓することに成功している。

 しかしシャネルはそれを意図的ではなく、どちらかというと本能的におこなったようだ。その証拠に以下のような発言をしている。

 シャネル曰く、「いったいなぜわたしはモードの革命家になったのかと考えることがある。自分の好きなものをつくることではなかった。何よりもまず、自分が嫌いなものを流行遅れにすることだった。わたしは自分の才能を爆弾に使ったのだ。わたしには本質的に批評精神があり、批評眼がある」

 そして、嫌悪感という否定の意思をもって旧モードを抹殺していく、それはまるで、皆殺しの天使のモード革命であった。

ココ・シャネルの軌跡(ガブリエル・ボヌール・シャネル)

1883年-フランス、オーヴェルニュ地方ソミュールに生まれる
1895年-母死亡、オバジーヌの修道院に入る
1900年-妹とともにムーランの寄宿舎へ
1908年-パリ、マルゼルブ通りに帽子店を開く
1910年-カルボン通りに帽子店を開く
1913年-ドーヴィル(避暑地)に店を開く
1915年-ジャージーを生地に使いはじめる
1916年-ピアリッツに出店、ハーパースバザー誌に服が掲載される
1919年-カンボン通りに店を移転する
1921年-香水No.5発売
1922年-コクトーの演劇「アンチゴーネ」の衣装を担当する
1924年-香水会社設立、オペラ風バレエ「青列車」の衣装を担当する
1926年-ヴォーグ誌にリトルブラックドレスを掲載
1928年-ツィードのスーツを発表
1929年-ショルダーバッグを考案
1934年-ホテルリッツに居を移す
1936年-シャネル店、ストライキに突入
1939年-従業員を解雇し、アクセサリーと香水部門を残し店を閉じる
1944年-対独協力疑惑で尋問を受ける、のち釈放される
1945年-スイスに移住
1953年-復帰を決意しパリにもどる
1954年-復帰第1回コレクション開催、ライフ誌がシャネル特集
1955年-マトラッセのショルダーバッグ発売
1958年-オートクチュール協会を脱会
1970年-香水No.19発売
1971年-1月10日、ホテルリッツにて急逝、87歳

◇年表参考:シャネル/最強ブランドの秘密 山田登世子著

 1921年に発売された香水「No.5」というネーミングには、シャネルの批評的姿勢が如実に表れている。当時の有名クチュールでは、ドレスに名前を付けていたそうだ。それにシャネルは、「クチュリエ的ポエジー」だと批評している。

 そして、シャネルは自分の服にはナンバーしかつけないことにした、と言っている。これは、まさにシャネルの面目躍如というべきか。

 第二次世界大戦が間近となった1936年、コレクション前の苛烈な労働条件に、労働者側がストライキをはじめる。シャネルは彼らの考えを受け入れられずに対立し、戦争がはじまった1939年、ほぼすべてのビジネスを閉鎖した。

 パリがドイツに占領されていた期間、ドイツ人高級将校と親しくなり、その他にも疑惑が浮上していた。終戦後、シャネルはスイスに移住した。

 スイスに移住したのは、一種の亡命だったといわれる。スイス移住を勧めたのは、イギリスのチャーチルだったといわれる。

 1954年、復帰後の第1回コレクションを開くが、パリではほぼ黙殺された。なぜかといえば、当時はディオールが全盛であり、エレガントの時代だったからだ。しかし、海の向こうアメリカでは違っていた。

 ライフ誌でシャネル特集が掲載されると一躍人気は挽回されていく。パリでもメディアが逆輸入される形で特集し、シャネルはパリモードの世界にふたたび認知された。そして、以後はトップブランドの座を揺るぎないものとした。

 シャネルの仕事ぶりは、高齢になっても立ったまま行われたという。いったん仕事にかかると9時間ぐらい立ちぱなしだったそうだ。

 当時のシャネルは、デザイン画やマネキンを使わずに、生身のモデルを使い直接生地を当ててデザインしていくことを好んだといわれる。

 シャネルは、スイスに移住した期間を除くとほぼ現役であった。1971年1月10日、住まいとしていたホテルリッツにて急逝した。87歳だった。

恋多き女、シャネル

 シャネルは恋多きの女としても有名である。若くして有名人となった彼女には、やはり交際した相手も金持ちや、貴族などのセレブが多い。

 とくに有名なのが、イギリス一の大金持ちといわれた貴族のウェストミンスター公である。約10年ほど交際したといわれる。

 シャネル自身がもっとも影響を受けた交際相手だったようだ。結婚も考えたようであるが、しかしシャネルは仕事を選ぶことにした。そして、シャネルは次のような伝説的な言葉を残している。(真相は不明であるが)

 シャネル曰く、
「ウェストミンスター公爵夫人なら3人いるけど、ココ・シャネルは一人しかいない」

 さすが、ココ・シャネルとしか言いようがない。

追記:
 シャネル亡き後、シャネルブランドは「カール・ラガーフェルド」をクリエィティブディレクターに迎えて第二の黄金期を迎えた。しかし、そのラガーフェルドも2019年初頭に亡くなり、現在はラガーフェルドの右腕として30年来共に仕事をしてきた「ヴィルジニー・ヴィアール」がディレクターに就任している。

 ラガーフェルド時代のシャネルは、シンプルをベースとしたゴージャス感が漂っていた。それは、ココとは違った意味でシャネルらしく、また個性的であった。

シャネル 最強ブランドの秘密 (朝日新書)
シャネル 最強ブランドの秘密 (朝日新書)

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