明治、大正、そして昭和の帝国崩壊まで
軍部独裁の礎を築いた山県有朋、それはやがて来る崩壊に繋がっていた
現在の日本国家のはじまりと言っても過言ではない明治時代は、誰がつくりあげたのか。維新の元勲である西郷隆盛、木戸孝允、大久保利道などであるか。しかし、かれらは早くに亡くなっている。そして、その後を引き継ぎ形で実権を握り、明治時代を形成したのは、実は伊藤博文と山県有朋であるといわれる。
山県有朋(やまがたありとも、1838年6月14日〜1922年2月1日没)
長州藩出身、幕末期は奇兵隊隊長。維新後は、軍人、政治家として、陸軍大臣、参謀総長、内閣総理大臣などを歴任する。
右から二人目が、山県有朋
伊藤は政治体制を、山県は軍部体制を中心となってつくりあげた。軍人である山県は、日本陸軍の父ともいわれる大村益次郎の軍構想を引き継ぎ、国民皆兵という徴兵制を基本方針として推進していく。それは、維新後でも影響力を誇示する旧・武士階級とのあつれきを生んだのは言うまでもない。
しかし、山県は矢面には立たずに維新の元勲を巧みに利用しながら、旧・武士階級を排除していくことに成功する。
”廃藩置県”で旧体制は崩壊し、旧・武士階級はその存在意義が失われた。山県の目論みはまさにそこにあった。明治の国家観は天皇を頂点とすることにあった。それを確かなものとするには、武士階級は邪魔でしかなかった。天皇直属の軍隊をつくる、それが山形の目標となっていた。
廃藩置県後には、旧・武士階級の不満が”士族の氾濫”という形で現れた。しかし、それも薩摩の士族が西郷隆盛をかついで行った西南戦争が最期となった。これをもって本当の意味での武士の時代が終焉したといえる。
山県は、その後軍部の頂点に君臨し、天皇直下となる軍体制の確率に邁進していく。それは、政治と一線を引いた独立した権限を有した軍体制にあった。天皇の軍隊を目指す山形は、それを着々と実行に移していく。
天皇直下の軍隊として”統帥権”を独立させた。それは、まさに政治と軍部を分離したものであった。政府といえども軍部体制に口を挟むことはできなくなった。さらに、陸・海軍の大臣に現役制を設けて文官を排除した。
<統帥権とは>
統帥権(とうすいけん)とは、大日本帝国憲法下の日本における軍隊を指揮監督する最高の権限のことをいう。天皇を最高指揮官として、その直下に軍があることを意味する。したがって、天皇に委託された軍機能には、政府や文官の権限は及ばないとされた。
もはや軍部に手をだせるのは軍人のみとなった。その頂点にいたのは山県有朋であったのは言うまでもない。
そして、強大化を進める日本の軍事体制は、ついに対外戦争を行い日清戦争、日露戦争に勝利した。これが、山県有朋のひとつの帰結であったといえる。国民皆兵、武士階級の排除、軍隊の独立的権限という経緯の結果であったからだ。
日本は朝鮮半島に進出し、また満州にも手を伸ばしていた。
しかし、その後はいかんともしがたくなる。大正、そして昭和と軍部は独裁的傾向を強くし、政府の意向などは無視していく。政府が軍の意に添わなければ、軍事大臣を辞任し内閣を崩壊に導いた。そして、日本は軍部独裁の時代を迎える。
その結果、満州事変、中国大陸への侵攻、アジア諸国への侵攻、太平洋戦争へと突入していった。そして昭和20年に敗戦し、明治から築き上げてきた大日本帝国という国家は瓦解してしまった。
軍部独裁、独断専行という寓を犯したのは何故か。それは元を辿れば山県有朋が推進した軍部の”統帥権”の確立にあったのは言うまでもない。これを最大限に活かして昭和の軍部は独裁を強め、戦争推進体制をつくりあげた。
ただし、昭和の軍部と山県ありきの軍部には多少違いがあった。日清戦争や日露戦争でも引き際を心得ていたのが、明治の軍部であった。昭和の軍部は引く事を知らず、奢り高ぶった姿勢を最期まで改めなかった。
以上が、山県有朋と明治の時代のあらましです。かなり端折っていますので分かりにくかったかもしれません。興味の有る方は、ぜひ下記に紹介している「山県有朋(半藤一利著)」をご覧ください。
山県有朋は、その権力と権威の割には国民の人気はなかったそうです。明治天皇もどちらかといえば、伊藤博文を信頼し頼りにしていたとか。
半藤氏の著作では、とにかく不気味さが漂う気味の悪い人としています。冷酷無比、計算高く陰謀家などと良くはいわれていません。それでも、明治時代に武力を背景として、短期間に大日本帝国を築き上げた立役者であるのは事実のようです。
ちなみに、山県有朋は西南戦争の功により年金740円を与えられ、1878年(明治11年)に1万8千坪の土地を購入、自分の屋敷として「椿山荘」と命名した。広大な庭園で有名なこの地は、現在「ホテル椿山荘東京」となっている。
ホテル椿山荘東京
http://hotel-chinzanso-tokyo.jp/
冒頭写真:明治期の陸軍参謀本部(奥に見える建物)
現在の世界情勢との関係性
現在、中国は拡張主義を隠す事無く邁進しています。その姿を見るとなんだか約100年前の日本と瓜二つのような気がしてきます。20世紀初頭の日本はまさに軍部独裁が強まって、朝鮮および満州に進出していきます。
その結果、世界各国とのあつれきを生んでいました。それでも拡張を止める事無く、やがては孤立し戦争へと向かっていきました。現在の中国がやっていることもそれとおなじと言っても過言ではないでしょう。中国の軍部が自信満々なのも、かつての日本の軍部によく似ています。
それを考えると残された道は戦争が想像されます。あと何年後か知りませんが、このままいくと間違いなくそれはやってくるような気がします。
■明治時代(年表概要)
1868年(明治元年)
・明治維新、神仏分離令、7月江戸は東京と改称。
1869年(明治2年)
・東京奠都。戊辰戦争の終了、五稜郭の戦い。版籍奉還。
1870年(明治3年 )
・日章旗が国旗となる(商船規則)。
1871年(明治4年)
・新貨条例制定。廃藩置県、全国の府県を改廃(3府72県となる)。
1872年(明治5年)
・学制。太陽暦採用。琉球藩設置。
1873年(明治6年)
・徴兵令。地租改正。征韓論問題。
1874年(明治7年)
・民選議院設立建白書。佐賀の乱。台湾出兵。
1875年(明治8年)
・2月13日、平民の称姓布告。樺太・千島交換条約。第1回地方官会議開く。
1876年(明治9年)
・日朝修好条規(江華条約)、帯刀を禁止(廃刀令)、神風連の乱・秋月の乱・萩の乱・思案橋事件起こる。
1877年(明治10年)
・2月15日、西南戦争始まる(9月24日、西郷隆盛自刃)。
1878年(明治11年)
・1876年1月1日調査の戸籍表を発表(戸数7,293,110人、人口34,338,400)。
1879年(明治12年)
・8月31日、明宮嘉仁親王(大正天皇)誕生。沖縄県を設置(琉球処分)。
1880年(明治13年)
・国会期成同盟が結成される。君が代に曲がつけられる。
1881年(明治14年)
・開拓使官有物払下げ事件、明治十四年の政変。国会開設の詔勅出される。
1882年(明治15年)
・福島事件。壬午事変。
1883年(明治16年)
・陸軍大学校開設。鹿鳴館開館。
1884年(明治17年)
・群馬事件、加波山事件、秩父事件、甲申政変、大同団結運動
1885年(明治18年)
・大阪事件、天津条約 (日清)、内閣制度が発足。
1886年(明治19年)
・ノルマントン号事件。
1887年(明治20年)
・保安条例。
1888年(明治21年)
・海軍大学校開設。日墨修好通商条約締結。香川県が愛媛県より独立。
1889年(明治22年)
・大日本帝国憲法発布。衆議院議員選挙法・貴族院令など公布。市制・町村制が施行。
1890年(明治23年)
・第1回衆議院議員総選挙(翌1891年3月7日閉会)、第1回帝国議会召集、『教育ニ関スル勅語』発布、府県制・郡制が執行される。
1891年(明治24年)
・大津事件、足尾銅山鉱毒事件、濃尾地震。
1892年(明治25年)
・第2回衆議院議員総選挙。
1894年(明治27年)
・第3回衆議院議員総選挙、第4回衆議院議員総選挙。
・日清戦争 (〜1895年/明治28年)
1895年(明治28年)
・下関条約で日本が台湾・澎湖諸島・遼東半島を獲得、三国干渉で遼東半島を領土剥奪。
1896年(明治29年)
・明治三陸地震。
1897年(明治30年)
・貨幣法制定。
1898年(明治31年)
・第5回衆議院議員総選挙、大津事件、第6回衆議院議員総選挙。
1900年(明治33年)
・義和団の乱(義和団事件)、治安警察法。
1901年(明治34年)
・4月29日、迪宮裕仁親王(昭和天皇)誕生。
1902年(明治35年)
・日英同盟締結。第7回衆議院議員総選挙。
1903年(明治36年)
・第8回衆議院議員総選挙。
1904年(明治37年)
・日露戦争(〜1905年/明治38年)、第9回衆議院議員総選挙。
1905年(明治38年)
・日本海海戦。ポーツマス条約。日比谷焼打事件。第二次日韓協約。
1906年(明治39年)
・鉄道国有法公布。南満州鉄道設立。
1907年(明治40年)
・ハーグ密使事件
1908年(明治41年)
・赤旗事件。第10回衆議院議員総選挙。
1909年(明治42年)
・伊藤博文暗殺
1910年(明治43年)
・韓国併合。大逆事件(幸徳事件ほか)。
1911年(明治44年)
・関税自主権の回復により、幕末以来の不平等条約が完全撤廃される。
1912年(明治45年/大正元年)
・第11回衆議院議員総選挙。第一次護憲運動(憲政擁護運動)。
・7月30日、明治天皇崩御、皇太子嘉仁親王が天皇に践祚、大正に改元される。
参考:ウィキペディアより
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