概念あるいはアイデアが、アートになった!?
はじまりは印象派?
かつて芸術家は、一部の特権階級のニーズを満たしていれば良かった。正確ではないかもしれないが、概ねそのような時代があった。そこでは、芸術家は後世に残す記録として絵画や彫刻を制作した。なにしろ写真のない時代であったからである。
芸術家の素養は、主に技術にあった。絵画なら対象をほぼ同じ様に写しとる、それを魅力的な構成と色彩でキャンバスに描くことであった。立体でも概ね同じく、対象と同じように表現する必要があった。(宗教芸術の場合は、いかにもありそうと思わせる表現が重要であった)
何故なら、その役割が主として時の権力者の力の誇示、またはその記録にあったからである。誰が支配しているか。それを一目瞭然とさせるには見たまま、あるいはそれに近い表現が必然だった。それが写実表現という芸術の意味であった。
なお、上記内容は、あくまで個人の見解であり美術教科書とは違う事をお断りしておきます。解釈の仕方は、幾通りもある。教科書がすべて正しいとは限らない。同じく美術評論家もである。
それはさておき、芸術表現としての写実の時代は長く続いた。しかし、19世紀になって写真が発明されたことでようやく変化が生じ始めた。写真は、対象そのものを写し取ることができたからである。それまで絵画が持っていた特権の記録としての価値に影が差し始めた。
徐々にであるが、写真技術の進歩に従い、それまでの絵画常識が通じなくなった。写実の危機、さらには芸術の危機でもあった。しかし、芸術は不滅なりである。危機に瀕した芸術は、新しい表現とその意味を模索し始めた。そして誕生したのが印象派であった。
印象派は、対象物を見える様に写し取るのではなく、あくまで芸術家個々の心を通して対象を表現した。したがって、芸術家個人の差で同じ対象でも異なる表現となった。それが、画期的だったのは、それまでの芸術表現では描かれた対象は、誰でも同じく感じることができたが、印象派では「見え方は違う」という観点にあった。
この根本の持つ意味は、たぶん現代の美術に大きく影響している。
この印象派以後、芸術の世界では次々と新しい表現が試みられた。対象を荒々しいタッチで描くフォービスム、対象を一度壊して再構成するキュビスム、そして、対象をもたない抽象表現などである。
そして、ついに登場したのが、描かない、作らないという芸術家である。それがマルセル・デュシャンであった。キュビスムを経てダダの芸術家となった彼は、1917年に行われた展覧会に既製品の便器に「泉」と題して出品した。(ただし、この作品は主催者によって撤去された)
彼は、その作品が撤去されることをはじめから想定していた。そして、それを非難するとともに作品を説明する文章を公表した。既成概念を壊す作品、その作品の撤去、その行為を非難する、作品の意味を提示する。これらのすべての行為が彼の作品であった。
そして、「泉」は、芸術史に燦然と輝く革命の狼煙となって記憶された。いま、現代芸術はよく分からんという多くの認識は、ここに端を発している。それは、ほぼ間違いないことである。違うか。
デュシャンの子供たち、それがコンセプチュアルアートか
コンセプチュアルアートとは、1960年代から70年代に掛けて盛んに行われた芸術様式である。日本では概念芸術と訳された。この概念という言葉が難しいので敬遠した人も多いに違いない。何を隠そう、当該ユーザーもそうである。
コンセプチュアルの元であるコンセプトなら、現代ではあらゆるところで頻繁に飛び交っている言葉である。このコンセプト、元々は広告業界の用語らしい。1960年代、それまでのセールスに主眼をおいていた広告業界は行き詰まっていた。そこで考案されたのが「コンセプト」という新しい手法?であった。
広告主を説得する際に、その理由を明確にし納得させるのに重宝だったらしい。コンセプト=基本的な考え方に基づき発案された広告案は、理路整然と論理的に構築されてクライアントに広告効果を伝えることができた。
それ以後、現在に至るまでコンセプトは広義のマーケティングの要となっている。商品開発、価格設定、コミュニケーション、営業・販売というすべての現場はコンセプトに基づいて動いている。たぶん。
アートは、そんなコンセプトに着目したに違いない。60年代にはすでにポップアートという広告と密接な関係にある芸術が誕生していた。ポップは広告表現の一端を切り取るかのような表現をしていた。(すべてではない)
それが何を意味していたか。広告の元にあったコンセプトは良い悪いは別にして表現様式にも影響を与えた。大衆の欲望を刺激する、明るい色調に彩られた既視感などもそうである。したがって、ポップアートを端的にいえば、大衆の欲望を隠喩的に表現した芸術作品といえる。
そんなポップアートの根底には、広告の表現をもたらしたコンセプトがあった。そう気が付いた芸術家は、だったら表現の元であるコンセプトそのものを芸術作品にしたらどうかと思ったに違いない。(あくまで個人の見解である)
しかし、思えば遠い昔にコンセプトに着目した人がいたはずであった。それが、デュシャンであったのは言うまでもない。
コンセプトに着目したアーティストは、そんなことは気にしないとばかりにコンセプチュアルアートを実践していく。ここに、何十年かぶりにデュシャンが蘇った訳である。彼らコンセプチュアルアーティスト達は、デュシャンの子供であり、孫であったと言って過言ではない。
さて、そんなコンセプチュアルアートとは具体的にはどんなものか。それを以下の様に参考を示して紹介していきたい。
■コンセプチュアルアートの作家たち(一部)
<先駆者>
マルセル・デュシャン
イヴ・クライン
ピエロ・マンゾーニ
アンディ・ウォーホル
フルクサス
ヨゼフ・ボイス
<中心アーティスト>
ローレンス・ウェイナー
ロバート・バリー
ダグラス・ヒューブラー
ジョセフ・コスース
アート・アンド・ランゲージ
<ミニマル・アーティスト系>
ソル・ルウィット
ロバート・モリス
<周縁アーティスト>
河原温
荒川修作
オノ・ヨーコ
ブルース・ナウマン
ギルバート・アンド・ジョージ
上記リストは、ウィキペディアを参考にしたが、なぜかウォーホルも入っている。ということは、やはりポップと密接な繋がりがあったということである。また、いまではジョン・レノン夫人として有名なオノヨーコも入っている。ちなみに、彼女とジョンが出会ったのは、彼女の展覧会であったのは有名な話である。
■ヨゼフ・ボイス(冒頭写真も同じく)
若いときにボイスの作品を見てよく分からなかった記憶がある。たしか、壁面にはフェルトの衣服が並んでいた。そして空間の真ん中には岩の固まりがごろりと転がっていた。と記憶にあるが正確ではない。なにしろずいぶんと前のことである。
そのとき理解はできなかったが、その空間の放つ一種異様な雰囲気には圧倒された。ちなみに、ボイスはいつもフェルト(たぶん)の帽子を被っていた。それがトレードマークであるかのように。
■オノ・ヨーコ
日本が世界に誇る異端の女性前衛アーティスト。それがオノ・ヨーコである。現在では、芸術家というより故ジョン・レノン夫人として有名である。また、最近では草間弥生のほうが、そのアートの評価は高いと思われる。
上の作品は、たしかジョンがヨーコに興味を持つきっかけになった作品だったはずである。脚立を昇って吊るされいる拡大鏡を手に、天井に書かれた小さな文字を見るとそこには「war is over」と書かれているとか。
■ソル・ルイット
ミニマルアートとコンセプチュアルアートという二つの領域に渡って活躍した。ソル・ルイットが書いた『コンセプチュアル・アートについてのパラグラフ』というエッセイが「コンセプチュアルアート宣言」として認知されたとか。しかし、ルイットは物理的な作品を制作するので、正確にはその範疇ではないと言う意見もある。
■河原温
日本人として、世界で最も有名なアーティストの一人である。60年代から始めた日付だけを描いた作品が有名である。これは「日付絵画」というらしい。毎日描いており、日付どおりにその日に仕上げていたとか。
■ジョセフ・コスース
言葉を主にモチーフとしてその意味合いに問題を投げかける。一般には難解としか思えないが、コンセプチュアルアートの中心的作家らしい。
彼は、コンセプチュアルアートの生みの親として言っても過言ではない。
なお、上記した内容は必ずしも正確とは言えない。何故なら記憶で書いているからである。しかし、思うに現代美術に正確な解釈など必要か。美術評論家の言う事が、すべて正解とはとても思えない。現代美術の解釈は、見る、感じる人によって様々な解釈ができるはずである。
参考文献:現代美術入門、ウィキペディアなど
<現代アートの本当の見方 >
本書は「アートを見る」というテーマを、〈技術〉〈社会〉〈精神〉の三種類に分類し、多様な視点から作品と向かい合うための様々なスタイルを提案します。
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