ペインティングの存在価値を復活させたアーティスト
バスキアという存在は、アートの世界でいかなるものだったのか。80年代初頭、20代前半のバスキアは、グラフィテイアートが注目されて一躍ニューペインティングのアイコンとなっていた。しかし、おなじムーブメントにいたシュナーベルやサーレと違って、美術評論家たちの評価はあまり高くなかった。
しかし、かれが死去後、その作品の価値はうなぎのぼりに高騰した。生前の評価の基準は、いったいなんだったのかと思うばかりである。
27歳で夭折したバスキアの軌跡
notary 1983
80年代当時、バスキア作品のコレクターは、ある有名美術館に作品の寄贈を申し出たがあっさりと断られていたとか。当時、一躍注目されてアート界のセレブとなっていたが、なぜか有力画廊のオーナーも、また評論家もおなじくバスキアを拒否していた。そのような出来事は過去にもあった、歴史は繰り返されるのだ。
バスキアは、プエルトリコ系とハイチ系の両親の間に生まれた。幼少から絵に親しみ、17歳頃から地下鉄やスラム街の壁にグラフィティを描き始める。それを評価されたバスキアは、ニューヨークで個展を開催した。
一躍注目されるようになったバスキアは、自身の作品を当時の有力画廊であったレオ・キャステリやメアリー・ブーンで扱ってほしいと願っていた。
しかし、ニューヨークの有力画廊オーナーであるレオ・キャステリは、バスキアの気難しい性格を理由に、かれの強い要望にも拘らず作品の扱いを拒否していた。天才性ゆえの気難しさや扱いにくさは、すでに有名となっていたようだ。
1983年頃、アンディ・ウォーホルと知り合い親しく付き合うようになる。ウォーホルの人気は、当時はすでに下り坂にあった。上り坂にあるバスキアと、下り坂のウォーホルの組み合わせは、何かと噂を呼んでいた。
ウォーホルは、そんなバスキアをお得意の夜の社交界に連れまわしていた。バスキアも、この頃はなんとなく浮かれていたようだ。この時期のバスキアは、以前の仲間たちとは疎遠になっていたといわれる。
ウォーホルとバスキア
そんなウォーホルを師と仰ぐバスキアは、かれと組んで共同制作にも取り組んでいる。それは意欲的な試みであったが、出来上がった作品群は当時の評論家たちから、ちっとも評価されなかった。悲観したバスキアは、ウォーホルとも疎遠になっていく。そして、ニューヨークを離れ、ロスアンゼルスへと向かった。
ロサンゼルスを拠点にしたバスキアは、環境が良かったのかこの地で多くの作品を制作した。また多くの顧客も獲得していたが、やがてまたニューヨークへと戻っていくことになった。ニューヨークは、バスキアにとって掛け替えのない根源の地であったといえる。1987年、アンディ・ウォーホル死去。
ウォーホルの死去と、満を持して発表した最新作が評価されなかったことが重なり、かねてより耽溺していたドラッグにさらに深く溺れていった。
そして1988年、ヘロインのオーバードーズにより27歳で死去した。
バスキアの作品は、かれの死去後には過去の芸術家とおなじく生前とはうって変わった評価になっていく。現在では、数十億円単位で取引されているとか。生前では、あのニューヨーク近代美術館でさえ作品の寄贈を断っていたといわれるが、それが嘘のような現在の価値及び評価となっている。
ちなみにバスキアの全作品数は、約900点といわれている。
<ニューペインティングについて>
1970年代後半から1980年代中ごろまで美術市場を支配した現代美術の様式である。それまでのコンセプチュアル・アートやミニマル・アートの難解さにうんざりしていた美術界に熱狂的に受け入れられた。日本では「ニューペインティング」という呼称であるが、世界的には「新表現主義」とか、「トランスアバンギャルド」といわれている。
melting pointo of ice 1984
追記:なお、上記した内容は何かで読んだり、観た記憶を頼りにしたものです。不確かな部分もあると思われます。ご了承ください。詳しくは、ドキュメンタリー映画「バスキアのすべて」を観ることをお勧めいたします。
バスキア作品の特徴として
無題 1982
1970年代、アートは描くものでは無くなっていた。コンセプチュアルやミニマルアートが全盛となっていたからだ。ミニマルといえば、単色で画面を塗り潰しただけという作品などで知られている。そこには描く情念などは微塵もない。
情念や感情といった人の生命の息吹さえも拒否したところに、ミニマルの本領があったと言っても過言ではない。ところが、70年代も終わる頃、突然のようにかつての抽象表現主義のような絵画を描くアーティストたちが現れてきた。
<抽象表現主義とは>
1946年、評論家のロバート・コーツによってアメリカの美術運動にこの言葉が当てはめられ、普及した。「抽象」という言葉はバウハウス、未来派、キュビズム、抽象絵画などの非具象の美学を引き継いでおり、「表現主義」という言葉はドイツ表現主義などの自己表現、激しい感情の表現を引き継いでいる。
アメリカでは、シュナーベルが代表的であった。かれは、大きなキャンバスに割れた皿を貼り付けて、さらに荒々しくペインティングするのが特徴となっていた。このような動きは、イタリアやドイツでも現れていた。
それらのアートは、ミニマルの人の痕跡を消したアートとは対極にあったのは言うまでもない。50年代の抽象表現主義、またはもっと以前のドイツ表現主義に近い匂いを放っていた。したがって、そのアートは「新表現主義」と称された。
アートにペインティングが久しぶりに復活したのである。
バスキアの作風もこの動きに同調するかのように、荒々しいタッチの抽象表現的な趣と、また原始美術的な要素、さらにドイツ表現主義のような時代の風潮に対する不安の感情表現などが混在していた。
バスキアは、メディアから原始美術的とか、子供が描くようなといわれることを嫌っていた節がある。これは個人的な想像であるが、「アウトサイダー・アート」ではない、という自負ではなかったかと思われる。
偶然できた作品という誤解をされたくなかった。何故なら現代美術には意図があるかないかで、その価値が大きく違ってくるからだ。(そして、現代美術の文脈にあることが重要視される)
バスキアの作品が、死後に大きく評価され価値が高騰したのは、現代美術の作品として認識されたことに他ならないだろう。
<アウトサイダー・アートとは>
特に芸術の伝統的な訓練を受けておらず、名声を目指すでもなく、既成の芸術の流派や傾向・モードに一切とらわれることなく自然に表現した作品のことをいう。
バスキアの絵画に見られる原始性は、かつてピカソがやっていたことに似ている。それは「アビニョンの娘たち」を見れば、納得と思われるがいかに。
そして、抽象表現主義的な荒々しいテクスチャー(感触、または質感)は、行為の復権を表している。人間は、どんなに技術が進歩しようが、体から手や足などが無くならないようにできている。
ミニマルアートが工業製品のように見えたのは、まるで未来のロボット社会を暗示していたようだった。それに対し、荒々しいテクスチャーの復活は、それに異議を申し立てているのに等しいと思われるが。
バスキアの作品は、あくまで人間の営みとしての芸術を表していた。それは、端的にいえば、「人間ここにあり」という主張だったように思われる。
バスキアの作品の特徴をさらに付け加えると、「描いては消し、また描いては消すことにある」。それは文字によく表れている、いったん描かれた文字をわざと線で消している。それがどういう意味なのか、残念ながらそれは知る由もありません。
無題 1982 ゾゾタウンの社長がごく最近購入した作品。なんと約62億円だそうである!
grillo 1984 半立体の作品
上とおなじく半立体の作品 ウォーホルに捧げた作品といわれる
雑貨ショップ「フランフラン」のコラボレート商品
追記:最近、エイミー・ワインハウスについて書いたところ、おなじ27歳で夭折していることに気が付きました。バスキアは以前にも掲載していますが、いまいちど見直してみたいという思いに駆られて、再度取り上げてみました。
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