■アート|アートなう!(6)スーパーリアリズム(フォトリアリズム)

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日常の光景を再生産する?アートとはいかに!

そのアートは、まさに写真みたいに描かれていた

 80年代は、現代美術が脚光を浴びた時代であった。それは、言わずと知れたニューペインティングが、センセーショナルな話題を集めたからに他ならない。しかし、あの時代には他にも注目集めたアートがあった。それが今回ご紹介する「スーパーリアリズム(フォトリアリズム)」と呼ばれたアートである。

 ちなみに「スーパーリアリズム」は、60年代後半から70年代に掛けてアメリカに現れたそうであるが、当方がそれを知ったのは80年代であった。

 80年代初頭のアートシーンは、ニューペインティングで幕を開けた。そして、日本でもその追い風に乗ってヘタウマなる画風が流行した。80年代前半は、まさに感性の時代に相応しい様相を呈していた。感性の赴くままに描かれた様に見える(新表現主義ともいわれる)ニューペインティングは、70年代の概念芸術が発していた小難しい雰囲気はみじんも無かった。

 トランスアバンギャルド(ニューペインティングの別称)とは、よく言ったもんである。アート界に衝撃を与えた点では、音楽界のパンクに良く似ている。

 ところが、80年代も後半になると(正確ではない)、シミュレーショニズムというアートの一派が勢い付いていた、引用、盗用、隠喩、暗喩などの手法?を積極的に活用していくアートであった。これは、どこかで見た様な気がしたが違うか?。ポップアートもティストは違えども、似た様な方向性にあったはずだ。

 しかし、シュミレーショニズムは、ポップアートほど見た目が判りやすくなかった。どこかコンセプチュアルな趣が背景に見え隠れしていた。端的に言えば、ポップとコンセプチュアルを掛け合わせたようなアートといえる。なお、あくまで当方の解釈であり、業界のコンセンサスではない。あしからず。

 そんな訳で80年代前半は、ニューペインティング。そして後半は、シミュレーショニズムという流れにあった。

 さて、ようやく今回の主役の登場です。「スーパーリアリズム」はどの辺で流行ったか。たぶんであるが、それは80年代中頃ではなかったか。もちろん、欧米では、それ以前(70年代〜)からすでに兆候はあった。日本で認知されたのがその時期だったと思われる。多少違っているかもしれないが、あしからず。

 とにかく、日本ではアートに先じて、まず広告等の分野で注目を集めたと記憶にある。

 ニューペインティングの勢いに乗じて流行した「ヘタウマ」が一世を風靡していたが、何故かそれとは正反対のリアルなイラストも流行りはじめた。それは欧米のアート事情が影響を与えていたのは言うまでもない。ただし、広告等のリアルイラストとアートの「スーパーリアリズム」には決定的な違いがあった。

※ヘタウマ=子供が殴り書きしたような画風が特徴のイラスト。

 それは、アートである「スーパーリアリズム」には、リアルイラストによくある情感やファンタジー性はみじんも無かった。要するに、写真の様にリアルである点を除くと、まったくベクトルが違っていた。アートとイラストの違いは、見た目以上に大きいと言わざるを得ないようである。

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リチャード・エステス

スーパーリアリズムの目的とは何か?

「スーパーリアリズム」とはどんなものなのか。それを簡単に説明すると、とにかく吃驚するぐらい「写真みたいにリアルな絵画」ということができるだろう。この”写真みたい”というところがミソである。何故なら、スーパーリアリズムの作家たちは、写真を基にして描いていたからである。

 何故、実在のモデルや風景を目の前にして描かないのか。そこが、現代アートたる由縁である。実在のモデルや風景を描くのなら、大昔の大家となんら変わらない。スーパーリアリズムは、リアルという写実絵画の領域にあるが、実はそこに目的は無いに等しい。では、どこにあるのか?。

 特別な価値が無い題材ばかりを意図的に選択するのは、何故か?。

 スーパーリアリズムの作家たちは、「日常のなんてことはない光景」を題材としていた。例えば、街の一角の景色、ありふれた食堂(ダイナー)、色鮮やかなお菓子、ごく普通の庶民のポートレート(肖像写真)などである。

 街の風景などは、そこで暮らす人々にとっては特別な価値などはない。ありふれた日常であり、いわば空気のようなものとなっている。そんな日常を写真に切り出して、それをそのまま写し取るように描くことが、スーパーリアリズムの真骨頂となっている。では何故写真を?、たぶんそこに意味がある。

 写真に撮られた光景は、言うまでもなく実際の光景とは違う。あくまで写真でしかない。プリントした場合は、薄ーい紙?でしかない。しかし、そこに写し撮られた光景は、間違いなく何年何月何日の光景の記憶となっている。

 その光景はありのままではなく、写真機を通したものでしかない。事実ではあるが、現実ではないともいえる。また、写真自体もありふれた日常とおなじく、どこにでもある存在である。ありふれた日常と、おなじような存在である写真機から生み出される光景は、掃いて捨てるほどに存在する。

 あくまで想像でしかないが、日常と記憶(または記録)というのが、ひとつの要素ではないかと思います。しかし、それだけでは、わざわざ写真を基に写真の様に描き起こす動機には結びつきません。

 日常と記憶だけなら、記録写真を撮れば済むことです。スーパーリアリズムの作家は、それを労力が掛かる絵画に描き起こしています。日常→記憶(記録)=写真→絵画→提示(観客)という流れとなります。

 これが意味することは、「ありふれた日常を写真を媒介にして再提示をしている」ということです。なんだか、判りにくいですが、当方の頭ではこれが精一杯です。要するに、「写真では日常的過ぎて見過ごすが、それを絵画にすることによって人々を喚起する」ことを狙ったものと考えられます。

 60年代のポップアートは、大量生産・消費という社会背景のなかで、消費される商品を主役にアート作品を創り上げました。そこでの主役(題材)は、食料品などの生活必需品、新聞やテレビ、映画などのメディア、俳優等の芸能人、事件や事故のニュースなども含まれていました。

 ポップアートは、一見すると色彩があでやかであり、観る人を魅了します。しかし、実は「消費されるのは、何もモノだけとは限らない」ことを端的に示していました。そこが現代アートたる由縁ではないでしょうか。

 そして、時は変わり現れたのがスーパーリアリズムである。ポップアートが提示したのは、「すべてが消費される」ということであった。スーパーリアリズムは、その根源にある日常を取り上げることをアートにしたといえる。

 したがって、スーパーリアリズムは、「ポップアートから派生したアートと言っても過言ではない」と思われます。若干、コンセプチュアルな要素もおなじくです。なお、アンディ・ウォーホルをコンセプチュアルアートに含む評論家もいる。

 80年代(実際は70年代か)も遠くに成りにけりですが、スーパーリアリズムも最近ではその影さえ見る事も無い、と思いますがいかに。とにかく、あれほど流行った(そういうしかない)アートも、時の流れに取り残されたのでしょうか?。

 そんな想いに駆られる昨今です。ちなみに当方が記憶しているスーパーリアリズムの作家は、チャック・クロース、リチャード・エステス、それから名前はド忘れしたが、女性のお尻ばかり描いていた作家ぐらいでしょうか。女性のお尻もありふれた日常といえば、そうかもしれない。(ジャック・カーセルと判りました)

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チャック・クロース

スーパーリアリズム概要(別称ハイパーリアリズム、フォトリアリズム)

 1960年代中頃から70年代、アメリカを中心に現われたアートのジャンル。主に写真を基にして徹底して写実的に描く絵画となっている。ただし、そこには感情を限りなく排していた。描写対象を選択し、現実の写生ではなく、カメラという機械が捉えた写真を機械的になぞる手法を行っていた。

※写真をプロジェクターでキャンヴァス上に投影して制作した。

 写真のようにリアルに描く画家をなんでもスーパーリアリズムとする傾向がありますが、なんだか勘違いしていると思います。上記したように、基を辿ればポップアートがあり、コンセプチュアルアートがあるように、その表面的な要素だけが判断基準ではありません。単にリアルな絵を描く画家は、それこそ掃いて捨てるほどいます。

 現代アートとして、認知される基準はその背景にある意味性が重要と思われます。ただ単に絵がうまいだけでは、もはや現代アートとして認められない。

 昨今、欧米の映画やテレビドラマを見ていると、家の壁に掛かっている絵画は抽象的な表現の作品が多い様に見受けられます。個人的には、リアルな絵画は見ていて疲れるのですが、それは何故でしょうか?。現実をあまり直視したくない表れかもしれません。

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作品を制作中のジョン・カーセル

冒頭作品:ジョン・カーセルの作品

リチャード エステス パリの街路 アートポスター

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