■時代と流行|中国革命と日本人(1)明治・大正期の男の気概

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孫文という中国革命期の英雄の影に日本人あり!

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孫文臨時大総統の就任演説 映画「1911辛亥革命」より

20世紀初頭のアジア革命には、常に日本人がいた

孫文といえば、中華圏では歴史上の英雄として大変人気の高い人である。台湾では、お札に刷られているほどである。ともかく、孫文が中国を現代化に導く突破口を切り開いた一人である事は間違いないようだ。しかし、一般に広く知れ渡っている英雄とは少し違うようである。清王朝が、辛亥革命に端を発した革命によって倒壊したのは事実である。しかし、それを仕切ったのは孫文ではなかった。

1911年、辛亥革命が起きたとき、孫文はアメリカにいたそうである。中国の現地では光興という人が司令官として戦っていたようである。他にもいるが、ここでは割愛させて頂く。そして多くの日本人有志がこの革命に参加していた。彼らは現在で言えば、右翼になるかもしれないが、当時では大アジア主義を掲げて気宇壮大な夢を実現すべく活動した気概のある男達であった。その代表的な人物が、頭山満という巨魁である。

孫文は、頭山をはじめ多くの日本人の支援を受けていた。それは日々の生活費から革命の活動費に至るまでである。辛亥革命が起きた後、孫文はすぐに帰国せず、アメリカからヨーロッパに向かった。資金調達のためと言われている。そして、革命勢力が南京に拠点を設けた後に帰国し臨時大総統の地位に就いた。彼が、その地位に就いたのは、革命勢力のなかで一番年長だったからと言われる。

けっして彼は人望が厚かった訳ではないようだ。それを証明するように、孫文は南北妥協を説き、僅か三ヶ月ほどで総統の地位を清の高官だった袁世凱に譲った。これに、端を発して彼の元から多くの同士が離脱したそうである。また、日本人の有志たちも同じくであった。それでも、頭山満をはじめ日本の有力者や事業家が彼を支援した。孫文は、その後も第二革命、第三革命と計画するもいずれも失敗する。すでに、彼のもとには中国人の同士は集まらなかった。


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ジャッキー・チェンが演じた革命軍司令官の光興

何故、彼の元から有能な同士が離れたか、それは、彼が常に自分の意見を譲らなかったことが要因らしい。自分の考えを一番として同士の異なる意見を悉く粉砕したそうである。時には怒鳴りちらし、机を叩いて激高したそうだ。彼は自負が強く、また自信もあったのだろう。しかし、彼が指導した革命蜂起は悉く失敗している。では、何故、現在では孫文が英雄視されているか。

孫文が、いまでも革命の英雄視されるのは、その理論を残したせいであるらしい。

それは、「三民主義」という革命唯一の理論書だったそうである。これによって、現在では英雄、または神格化された孫文像というものが出来上がったようだ。なんと、あの毛沢東もこれに習って「毛沢東思想」を書き残すことにしたと言われている。しかし、当時の日本人は何故それほどまでに孫文に入れあげたのか。

孫文は大アジア主義というものを説いていた。それは、日本は中国と手を結んで北方ロシアに対抗すべきという考えであった。また、国内にあっては五族共和を目指す思想を説いた。五族とは漢、満、蒙、回、蔵諸族である。漢人による革命ではなく、種族を超えた共和国を造ろうと呼びかけた。これらの元の考えは、欧米に対応するアジアというのが根底にあった。当時、アジアの多くの国々は欧米列強によって植民地化されていた。それに対応するには、一国では無理であるという考え方があったと思われる。たぶん。

この考えに共鳴した多くの日本人が、孫文を支援すべく中国革命に馳せ参じた訳であった。その後この考え方は、だいぶ曲折して大日本帝国軍部が日本を頂点とした五族共和を元に、八紘一宇の精神を説いて戦争へと向かう事になった。

八紘一宇、全世界を一つの家にすること。第二次大戦期、日本が海外侵略を正当化する標語として用いた。

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孫文の肖像写真 年代不明

孫 文(そん ぶん、1866年11月12日〜1925年3月12日)は、中国の政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統。中国国民党総理。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。(ウィキペディアより)

つづく

次回は、当時の気概ある明治生まれの日本人に焦点を当ててみたいと考えます。

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