華麗なる虚飾の宴とその人生とは!
映画「華麗なるギャツビー」レオナルド・ディカプリオ主演
フィッツジェラルドの「華麗なるギャツビー」が、レオナルド・ディカプリオを主演に迎えて、何度目かの映画化が実現した。今回は、バズ・ローマン監督(ロミオ&ジュリエット、ムーラン・ルージュ等)によって、前作のものより、さらに絢爛豪華な映像を魅せているようである。
また、主役であるギャツビーの人物描写が前作とはかなり異なっているようである。小説とは違い、独自の解釈をしたと事前に発表された広報資料にある。
下に貼った予告編を観る限り、その絢爛豪華さは伊達ではないようである。美術、衣装、セット、ロケーション等々の豪華さが、想像できる。映像は、非常にいい感じであると思うのだが、ディカプリオが果たしてギャツビーに似つかわしいかは、個々それぞれ意見が異なるのではないか。
映画『華麗なるギャツビー』予告編1【HD】2013年6月14日公開
ギャツビー、それは男の夢のなかに
もう何年も、いや10年以上ギャツビーを読んだ記憶は無い!。この本は持っているが、しばらくお目にかかった事がない。どこかにあるはずである。村上春樹が翻訳した短編集もあったが、それも定かではない。探すのもメンドーなので、たぶんそのうちに出てくるまで待とうと思っている。
記憶の中のギャツビーは、どちらかと云えば優男であった。これは、小説よりもロバート・レッドフォードが主演した映画の影響だと思われる。映画では、ギャツビーが恋いこがれる相手ディジーをミア・ファローが演じていた。
これが、どうにも感情移入できなかった記憶がある。何故、彼女なのか、やはり日本人とアメリカ人では、女性の捉え方に差があるようである。しかし、アメリカ人のフィッツジェラルドの小説が原作なのだから、日本人がとやかく云うのも変であろう。たぶん、あれで正解に近いに違いないと無理矢理に納得する次第である。
なお、今回の映画でもどことなくファローに似ているキャリー・マリガンという女優が演じている。なるほど、やはりそうきたか。
グレート・ギャツビーの表紙 1925年出版当時のもの?
個人的には、小説を読んだときの記憶として焼き付いているのは、成り上がったギャツビーが、ディジーを自邸に招きそこで自分のシャツのコレクションを見せる場面である。色、デザイン、素材等の異なる様々な趣味のよいシャツを棚から出してはディジーに見せるのである。
その美しさにディジーは、頬を擦り付けてなんて美しいシャツなのかしら。と感激するのである。
この場面は、成り上がったギャツビーの面目躍如の場面であると同時に、そうしなければ存在価値を示せないギャツビーの悲しさも表現していたと思うのである。なんで、そこまでディジーにこだわるのか、いまでも正直理解したとは云いがたいのである。しかし、なんて男は悲しい生き物なのか。
と思う事自体は、たぶんフィッツジェラルドと同じではないか。ま、違うかもしれないが。個人的にはそう思っているのである。
以下は、グレート・ギャツビー村上春樹/翻訳版。
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