半世紀にわたって第一線に君臨するロックバンド
驚異のロックン・ロール・バンド
ザ・ローリング・ストーンズは、いまさら言うまでもなく、偉大なロックバンドであるのは間違いない。そして、それは多くの人に認知されている。
さらに驚くべきことは、1962年の結成以来、約半世紀にわたり現役のままミュージックシーンの第一線に君臨していることだ。
デビュー以来、なにかと比較されたザ・ビートルズは、とっくの昔に解散している。そして良い悪いは別にして、いまでも創作、創造、表現をしていることは、とてもすごいことである。すでに、なにかを超越した存在となっている。
ローリング・ストーンズは、60年代のロックシーンをともに駆け抜けたビートルズとは、なにかにつけて比較対象されるバンドであった。
一時期は、ビートルズの先進性を後追いするような音楽性を有していた時期もあったが、ある時期からは自分たちの音楽性を確立し、独自の道を歩みはじめていく。それからは、もうだれとも比較対象とはならなくなった。
ザ・ローリング・ストーンズの軌跡
1962年、英国のロンドンでブライアン・ジョーンズ(ギター)、イアン・スチュワート(ピアノ、63年脱退後ロードマネージャー)、ミック・ジャガー(リードボーカル)、キース・リチャーズ(ギター)によって結成された。
その後間もなくチャーリ・ワッツ(ドラム)とビル・ワイマンが加入する。結成当初のリーダーは、ブライアン・ジョーンズであった。
1963年、チャック・ベリーのカバーである「カム・オン」でレコードデビューする。英国のシングルチャートでは、21位となっている。
最初のアルバム『ザ・ローリング・ストーンズ』では、ほとんどがカバー曲であり、ミックとキースによるオリジナル曲は「テル・ミー」のみだった。その後、徐々にミックとキースのコンビによるオリジナル曲を増やしていく。
ちなみに、ローリング・ストーンズは、ビートルズと同じくR&Bやロックンロールの影響を受けていたが、ブルースにより強く影響されていた。その辺りが、ビートルズの音楽性と異なるひとつの要因となっていた。
ローリング・ストーンズという名称自体、ブルースの大御所であるマディ・ウォーターズの「Rollin’ Stone」という曲にちなんで付けられたそうだ。
デビュー以来、カバー曲を中心に活動していたが、1965年にミックとキースのコンビによるオリジナル曲「ラスト・タイム」が、英国でチャート1位となる。同年、おなじく「サティスファクション」が世界的に大ヒットする。
そして、1965年以降は、カバーではなくオリジナルが中心となり、いよいよローリング・ストーンズの本領が発揮されていく。
1966年4月、全曲オリジナルのアルバム『アフターマス』を発表する。このアルバムは、英国でチャート1位、アメリカでは2位となっている。
ローリング・ストーンズが、自分たちの音楽性を確立した最初のアルバムであり、現在でも人気の高い名曲が多く含まれている。「黒くぬれ!」「レディ・ジェーン」「アンダー・マイ・サム」など。
1967年1月、アルバム『ビトウィーン・ザ・バトンズ』を発表する。「夜をぶっとばせ」「ルビー・チューズデイ」が、アメリカで大ヒットする。(なお、英国盤のアルバムには収録されていない)
1967年12月、アルバム『サタニック・マジェスティーズ』(イギリス3位、アメリカ2位)を発表する。ビートルズの革新的名盤「サージェント・ペパーズ〜」が発売された時期と重なったことから、真似したという揶揄もあった。
しかしながら、その独特のサイケデリック風味のサウンドは、オリジナリティーがあり、他に代えがたい音楽性を有していた。その後のストーンズの音楽性を考えると非常に革新的なアルバムだった、といえるだろう。
1968年、アルバム『ベガーズ・バンケット』(イギリス3位、アメリカ5位)を発表する。「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」が大ヒットする。他には、「ストリート・ファイティング・マン」「悪魔を憐れむ歌」も収録されていた。
1969年、シングル「ホンキー・トンク・ウィメン」がヒットする。
1969年12月、『レット・イット・ブリード』(イギリス1位、アメリカ3位)を発表する。オルタモントの悲劇で有名な「ギミー・シェルター」が収録された。
ストーンズは、サンフランシスコから東に約50マイル離れたオルタモント・スピードウェイで行われたオルタモント・フリーコンサートに出演した。
このコンサートでは暴走族ヘルズ・エンジェルスが警備に雇われたが、観客の黒人青年メレディス・ハンターが武器を持っていたとして彼を刺殺するという、いわゆる「オルタモントの悲劇」が起こった。
このフリーコンサートの記録映画の題名が「ギミー・シェルター」である。
怒涛の60年代を駆け抜けたザ・ローリング・ストーンズは、70年のビートルズ解散以後もメンバーを入れ替えつつも活動を継続し、現在に至る。そして60年代のストーンズの軌跡は、もはや伝説となった。
画像引用:https://ameblo.jp/t-aaatred/entry-11925863556.html
ザ・ローリング・ストーンズ プロフィール
<主要メンバー>
ブライアン・ジョーンズ(Louis Brian Hopkin Jones、1942年 – 1969年没)
担当:ギター、ハーモニカなど
ミック・ジャガー(Sir Michael Phillip Jagger、1943年 – )
担当:リードボーカル、作詞など
キース・リチャーズ(Keith Richards、1943年 – )
担当:ギター、作曲など
チャーリー・ワッツ(Charles Robert Watts、1941年 – )
担当:ドラム
ビル・ワイマン(Williams Parks、1936年 – )
担当:ベース(1991年脱退)
<新規加入メンバー>
ミック・テイラー(Michael Kevin Taylor、1948年 – )
担当:ギター(1969年加入 – 1974年脱退)
ロン・ウッド(Ronald David Wood、1947年 – )
担当:ギター(1975年加入 – )
ストーンズ結成当時のリーダーだったブライアン・ジョーンズは、1969年に脱退を表明した。心身の不安定(薬物の影響とみられる)が理由とされた。脱退から約一ヶ月後、自宅のプールで溺死している。
ちなみにストーンズは、ブライアンの死後、追悼を兼ねたフリーコンサートをロンドンのハイド・パークで行っている。
画像引用:https://twitter.com/IconicImagesNet/status/1120326950634049536
The Rolling Stones – Satisfaction
1965年に発表されたローリング・ストーンズの楽曲。作詞・作曲はミック・ジャガーおよびキース・リチャーズ。グループの代表曲であると同時に、ロック史において最も特筆すべき曲の1つである。
ストーンズが世界的な人気を獲得した代表曲のひとつである。また、ミックとキースによる楽曲創作の高いオリジナリティを明確に認識させた。
表現方法として、ジャガーは「1960年代の時代精神であった”疎外感”をしっかり捉えている」と語っている。
The Rolling Stones – Out Of Time
1966年発表のアルバム『アフターマス』収録曲。作詞・作曲はミック・ジャガーおよびキース・リチャーズ。
The Rolling Stones – Paint It, Black
1966年発表のアルバム『アフターマス』収録曲。作詞・作曲はミック・ジャガーおよびキース・リチャーズ。邦題「黒くぬれ!」
ローリング・ストーンズが本格的にシタールを取り入れた最初の事例として知られる。シタールを弾いているのはブライアン・ジョーンズで、『エド・サリヴァン・ショー』に出演した際にも、彼は座ってシタールを弾いていた。
The Rolling Stones – She’s A Rainbow
1967年に発売されたアルバム『サタニック・マジェスティーズ』収録曲。作詞・作曲はミック・ジャガーおよびキース・リチャーズ。
『サタニック・マジェスティーズ』は、ストーンズの作品中、最も実験的でサイケデリックな仕上がりとなった。ミック・ジャガーは、本作の作風にドラッグ使用が相当な影響を及ぼしたことを認めている。
The Rolling Stones – Jumpin’ Jack Flash
1968年に発表されたローリング・ストーンズの楽曲。作詞・作曲はミック・ジャガーおよびキース・リチャーズ。「サティスファクション」と並び、ストーンズの60年代における代表曲の一つとされる。
前作『サタニック・マジェスティーズ』に見られたサイケデリック路線から一転、ストレートかつハードなロック・ナンバーで、イギリスでは「黒くぬれ!」(1966年)以来の1位、アメリカでも3位に付ける大ヒットとなった。
The Rolling Stones – Gimme Shelter
1969年のアルバム『レット・イット・ブリード』収録曲。作詞・作曲はミック・ジャガーおよびキース・リチャーズ。
歌詞はベトナム戦争から影響を受けた黙示録的な内容となっている。ジャガーはこの曲と『レット・イット・ブリード』全体がベトナム戦争の影響を受けていると語っている。実質的には作詞、作曲共にリチャーズによるものといわれる。
冒頭動画:「ストリート・ファイティング・マン」1968年
参考・引用:ウィキペディア、アルバム音楽批評、作品年表など
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