アメリカン・ニューシネマの夜明け!
■1960年代後半〜70年代のアメリカ映画史
テレビの登場によって苦境に立つハリウッド
1950年代に登場したテレビジョンという画期的発明品の登場によって、ハリウッドの映画界は苦境に陥ることになった。
当初、テレビを侮り高を括っていた経営陣もすぐに危機を感じ取ることになった。そこで考えられたのが、映画の特性を活かした大画面、そして大作主義であった。
代表作は、「ベンハー」「クレオパトラ」「史上最大の作戦」「サウンドオブミュージック」などであった。しかし、これら作品のいくつかは大ヒットしたにも関わらずハリウッドの危機は去らなかった。
そして、ハリウッドのメジャーは身売りせざる得ないことになったのである。ユニバーサルは、タレント・エージェンシーのMCAに買い取られた。
パラマウントは、自動車のバンパーを製造する会社ガルフ&ウエスタンに、MGMは、乗っ取り屋のカーコリアンに、ワーナーは、セブン&アーツ社に、かろうじて残っていた21世紀フォックスも80年代はじめには買収されることになる。
唯一残ったのは、ディズニーのみであった。
ニューシネマという革命、「俺たちに明日はない」
苦境にあるハリウッド映画界に60年代後半、突然現れたのがニューシネマと称された新しい映画作品であった。それは、これまでのハリウッドの伝統を覆す意図を持っていた。
当時のアメリカは、ベトナム戦争の真っ最中であり国内世論は揺れていた。若い層は、当然のように反戦運動に参加し、またヒッピーに代表されるカウンター文化が盛り上がっていた。このような背景のなか、登場したのがニューシネマであった。
ウオーレン・ベイティは、女優シャーリー・マクレーンの弟という立場を利用して映画界に入った。しかし、大した役も与えられず腐っていた。
自分の将来に危惧を抱いたベイティは自ら映画を製作することにする。そして企画されたのが、1930年代のギャングであるボニーとクライドの物語であった。これが記念すべきニューシネマの先駆けとなった「俺たちに明日はない」である。
この映画が、何故ニューシネマと云われたか。それは次のような理由がある。ハリウッドには、ヘイズコードと云われる自主規制によって表現に枠が嵌められていた。
代表的なのは、セックスを想像させる表現は不可であった。また、暴力も規制されていた。これが、60年代半ば過ぎに撤廃されたのである。
しかし、それまで規制の枠内でしか製作してない会社に、何をどう表現していいか分かるはずがなかった。そこに風穴をあけたのがベイティであった。ベイティは、この映画を製作するためにワーナー・ブラザースのジャック・ワーナーを追いかけ回し、何とか製作資金を確保する。ベイティにはもう後がなかったのである。
しかし、彼は妥協せず従来的手法はことごとく否定する。
例えば、露骨なセックスアピールの表現やリアルな銃撃戦などの描写にこだわった。監督のアーサー・ペンもこれに同調するように見事な演出を魅せるのであった。
出来上がった映画は、ハリウッド伝統の勧善懲悪からすれば意図的なルール違反の作品であった。
俺たちに明日はない!暴力、セックス、芸術などのハリウッド映画のすべてを打ち破ったニューシネマの傑作。
旧態依然の保守的な映画会社
1967年、この作品が公開されると批判的であった映画会社の経営陣はすぐにお蔵入りさせてしまう。しかし、ある新聞に書かれた進歩的な映画評によって注目を集めるようになり、タイムが特集を組む事になった。
この事態に驚いた経営陣は、一端はお蔵入りさせた作品を急遽引っぱりだし拡大公開を始めた。そして、それは大ヒットすることになったのである。ここに、記念すべきニューシネマが誕生したのである。
そして、この映画の成功によって次々とニューシネマ群とも云われる作品が製作された。「卒業」「イージーライダー」はその代表的作品である。他には「真夜中のカーボーイ」「いちご白書」「カッコーの巣の上で」「ディアハンター」「タクシードライバー」「アメリカン・グラフィティ」などがある。
しかし、ニューシネマもベトナム戦争終了とともに衰退していくのであった。そして、次なる救世主「スターウォーズ」が公開されるまで若干の時間を要したのである。
参考文献:映画の見方が分かる本、アメリカ映画の大教科書、ほか
以下は、町山氏ほかによる70年代映画の解説本とアメリカの本当の姿が分かるコラム集。
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