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■時代と流行|エルビスとロックンロール 時代を変えた音楽

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キング・オブ・ロックンロール

■エルビスがいなければ、現在のポップスの隆盛も無かった?

 エルビス・プレスリー(Elvis Aron Presley、1935年1月8日〜1977年8月16日)、白人のカントリーと黒人のリズム&ブルース(R&B)を融合してロックンロールを生み出した立役者である。いまさら言うまでもなく、エルビスなくしては、その後のロック、ポップスの隆盛はなかったと思われる。

 レコードの売上だけでいえば、その後のミュージシャンが凌駕しているが、かれがいなければビートルズもマイケル・ジャクソンも存在していなかったかもしれない。何しろ、音楽の境界を無くしたのはかれをおいて他にはいない。そこに、エルビスが「キング・オブ・ロックンロール」といわれる由縁がある。

 1953年、18歳のエルビスはメンフィス(アメリカ/テネシー州)でトラックの運転手をしていた。音楽や服装の好みを除けば、どこにでもいる中西部の白人だったようであり、運転手で一生を終えても不思議ではなかった。変わっていたのは、かなり早い時期から黒人音楽の魅力に取り憑かれていたことだ。

 エルビスは、黒人音楽を専門に流すラジオ局の放送を熱心に聴いていた。また、黒人のための教会の前では、中から聴こえてくるゴスペルに耳を傾けていたそうだ。洋服も黒人のとっぽい青年たち御用達の店で購入していた。それほどまでに黒人が発する何かがエルビスを刺激していたようだ。

 ちなみに、50年代はまだ黒人の人権が認められていなかった。あからさまな人種差別の時代であった。そんな白人優位、保守的な世相の中でやがてロックは生まれて、そして世間の非難を一身に浴びたのがエルビスであった。

 18歳のエルビスは、母親にプレゼントするためにレコーディング会社で歌を録音した。当時は、素人向けに録音サービスをする会社があったようである。その会社が、サム・フィリップスが経営するちっぽけなレコード会社「サンレコード」であった。このサムこそが、エルビスの第一発見者となった。

 サンレコードでは、黒人の音楽を多数録音し発売していた。といっても僅かしか売れなかったようで、素人向けや結婚式などの録音でなんとか凌いでいた。経営者のサムは、黒人音楽に魅了されていた。なんとかその音楽を世間に認知させようとしていたが、なんせ世の中は保守的な人種偏見の時代であった。

 そんなときに現れたのが、黒人のように歌う白人のエルビスであった。

 音楽の目利きであったサムは、エルビスに天性の才能を見いだしていた。そして、サムはエルビスと契約しレコードを発売することにした。

 1954年7月、“That’s All Right, Mama” を録音し発売した。これがエルビスの商業的な音楽のスタートとなった。このタイトルは、早くもメンフィスのローカルでヒットし、エルビスの公演もテネシー州で一躍評判となった。

サンレコードでプレスリーは以下の5枚のシングルをリリースした。

「That’s All Right / Blue Moon Of Kentucky」1954年7月19日
「Good Rockin’ Tonight / I Don’t Care if the Sun Don’t Shine”」1954年9月25日
「Milkcow Blues Boogie / You’re A Heartbreaker」1954年12月28日
「Baby Let’s Play House / I’m Left, You’re Right, She’s Gone」 1955年4月10日
「Mystery Train / I Forgot To Remember To Forget」1955年8月6日
(ウィキペディアより)


Elvis Presley Thats Alright (Mama) First Release 1954

時代は、エルビスに微笑む

■ロックンロールの幕は開いた

 1950年代初頭、アメリカでは黒人音楽は売れないとされていた。黒人は所得が低くレコードを買うお金もないだろうということだ。しかし、白人のティーンエージャーたちは密かにラジオで黒人音楽を聴いていた。

 1954年、エルビスがデビューしたと同じ頃、ビル・ヘイリーという白人歌手が黒人歌手のカバー曲を大ヒットさせていた。また、リトル・リチャード、チャック・ベリーなどの黒人歌手も人気となっていた。

 黒人音楽にはそっぽを向いていたメジャーレコード会社もいよいよ動き出していた。1955年、RCAはサンレコードから3万5千ドルでエルビスの契約を買い取ったのである。目利きのはずのサンレコードであったが、エルビスが途方も無い成功を収めるとは思い至らなかったのだろう。

 そして、1956年1月、RCA第一弾として「Heartbreak Hotel / I Was the One」が発売されて大ヒットする。このあまりにも有名な「ハートブレイクホテル」は、その後の多くの音楽家にも影響を与えている。

 エルビスは、この曲の大ヒットでアメリカ中から注目される存在となった。それからは頂点に達するまではあっという間であった。1956年のRCAのレコード売上の半分がエルビス関連のものだったといわれている。

 大ヒットを連発するエルビスであったが、一方では偏見との戦いも続いていたようだ。若者を除く世間一般は、エルビスを危険視していた。一部の地域では、かれのコンサートを行わせない運動もあったとか。

 腰をクネラセながら激しく歌うその様子に、常識的(過去の遺物)な規範を価値観とする白人家庭の親達はそれを異端として排除しようとしていた。しかし、もはや親の思惑もなんのその、ティーンエージャーたちはエルビスをはじめ、ロックンロールに夢中になっていた。

 もはや誰にも止められない若者文化がはじまっていた。この若者文化=カウンターカルチャー(対抗文化)は、やがてくる60年代に大きく花開いたのはいまさら言うまでもない。

 エルビスは、当人も考えもしなかったパラダイムシフト(時代、価値観の変化)を起こす突破口となっていた。ちなみにエルビスは、政治や社会の変革にはあまり関心がなかったようだ。いま思えば、本人が望むと望まないとに関わらず、その存在は必然ともいえた。言葉を変えれば、まさに「時代の申し子」であった。

 ビートルズとはじめて会ったとき、エルビスは「君たちのレコードは全部持ってるよ」と言ったそうである。それに対し、なんとジョン・レノンは、「オレはあんたのレコード一枚も持ってないぜ」と返したといわれている。

 ジョンの偏屈さと素直でないところが実によく表れている。エルビスは、それ以後は終世にわたってジョンを嫌っていたとか。いやはや。

 エルビスは、1977年に42歳の若さで亡くなっている。死因は突然死ということではっきりしていない。晩年は体調が優れず、一時期には太り過ぎから心臓に負担が掛かってるとかいわれていた。

 ちなみに、エルビスに嫌われたジョンも1980年に40歳で亡くなった。晩年のジョンはエルビスをどう思っていただろうか。1975年には「ロックンロール」というアルバムを発表している。音楽を志した動機ともなったエルビスと黒人音楽に対して、何か想うことがあってのことだと想像するがいかに。

参考文献:ザ・フィフティーズ「エルビスとディーン」、ウィキペディア、他

ザ・フィフティーズ〈第1部〉1950年代アメリカの光と影 (新潮OH!文庫)
ザ・フィフティーズ〈第1部〉1950年代アメリカの光と影 (新潮OH!文庫)

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