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■社会|最高学府卒はなぜか人を見下してばかり、頭の良さとはいったいなんだと思うしかない

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東大卒作家が、感想文にキレて北大生を罵倒する

東大卒で元官僚、代議士も作家も最低だな

 東大卒、元警察庁キャリア官僚の作家は、北海道大学の学生が、その作家のある本について感想をツイートしたところ、その内容にぶち切れて学生を罵倒するツイートを繰り替えしていたそうだ。

 しかも、その罵倒の内容が、とても東大卒とは思えない最低の表現となっている。たとえば、「バカ」「クズ」「猿」など、さらに北大の偏差値を馬鹿にするような内容もあったそうだ。とても最高学府卒の大人の所業とは思えない。

 人の尊厳を簡単に傷つけるのは、まるでDQNかと思うばかりだが、違うか。

DQNとは
粗暴そうな風貌をしている者や実際に粗暴な者、また非常識で知識や知能が乏しい者を指すときに用いられる。たとえば、ヤンキーなどに対して用いられることが多い。… DQN(ドキュン)とは、日本で使われるインターネットスラング・蔑称の一つである。

 日本の最高学府卒であり、しかも元キャリア官僚である。その上、現在は作家という文章を書くことを職業としている。それが、なんてザマだと思うしかない。作家なら、表現のボキャブラリーが豊富にあるだろうと思うが…。

「バカ」とか「クズ」としか言えないのが、なんとも痛すぎる。

東大卒作家、北大読書サークルにブチギレ!「バカ」「クズ」「猿」罵倒連発にネット「ドン引き」
 北海道大学の読書サークルに所属する学生が、あるミステリ小説の感想をツイートしたところ、投稿を目にした作家本人から「バカ」「クズ」「猿」などと罵倒される騒動があった。

 北大サークルの感想に反応したのは、東大法学部卒の作家・古野まほろ氏。ツイッター上で、学生の感想について「なんだその口の利き方は、本人の前で言えクズ」などと投稿。さらには、北大の偏差値を馬鹿にするような内容のツイートも投じている。

読者(顧客)には、自由に発言する権利はないのか
 北大の学生は、当然作家の書籍を読んで感想を述べたようだ。本を購入したかどうかは知る由もないが、少なくとも読者であるのは間違いない。読者はイコール顧客である。顧客である読者には、自由に発言する権利はある。

 たとえば、コンビニで購入した弁当がうまいか、まずいか述べることは自由だ。それに対して、コンビニ側が罵倒したらどーだろうか。

 コンビニに限らず、概ね企業は顧客からの意見を参考にして、商品開発やサービスに活かしている。(たぶんそのはず)なぜなら、顧客の意見にはシーズ(潜在的需要)や、ニーズ(顕在的需要)のヒントが潜んでいるからだ。

 ところが、前述した東大卒の作家さんは、読者=顧客であることよりも、自分本位にしか考えていないと思われる。読者が作家の意図を読み違えたり、または意見を述べると「バカ」とか「クズ」にしか見えないようだ。

まるで偏差値(自慢)DQNのようだ
 それにしても、東大卒、元官僚ってどんだけ偉いんだ、と思うしかない。北大の偏差値を出して馬鹿にするとか、まるで子供みたいだ。それこそ精神性が幼いままで止まってんじゃないのか、と言いたいぞ。

 最高学府卒なら、知識や教養は言うに及ばず、その上で寛容さを発揮する大人としての度量を見せて欲しいと思うばかりだが。

 偏差値など持ち出さずに黙っていれば、いずれ尊敬されるかもしれないのに、わざわざDQNな部分をさらけ出してどうするか。

 東大卒や現役東大生のすべてがそうであるとは思わないが、なぜか最近では、東大卒、元官僚のDQN的(非常識かつ知的でない)な行動が目立っている。

「このハゲーーーーーーー!」で一躍有名になった元女性代議士は、やはり東大卒、元官僚だった。さらに、「W不倫」で有名になった現役女性代議士もまたおなじくであった。ともに、自らの行動に対し責任を取っていない。

 とにかく、それらの人々が、東大卒のほんの一部であることを切に願います。

 なぜなら、日本の最高学府は、日本の未来を背負っているはずと思うからだ。ちなみに東大は無くてもいいという人もいるようですが…。

 それはさておき、東大などの国立大学は、日本の中枢を担う人材を輩出するという目的があるはずだが、そんな最高学府から、なんともはやと思うばかりの人材しか輩出されないとすれば、日本の未来は無いに等しくなるに違いない。

 とにかく、偏差値DQNに国が支配されているとは到底思いたくはない。

 なお、次のような指摘もあります。以下を参照ください。

東大出ばかりでは日本が滅びる
 話が突然変わるようですが、東京大学が官学の最たるものだとして、京都大学が批判的知性に見えることがありませんか?

 ノーベル賞も初期は京大ばかりで、自由な知性を印象づけた面があります。

 また、東大、京大などの「七帝」(北海道・東北・東京・名古屋・京都・大阪・九州)が「官学・帝大」であるのに対して、東京工業大学や一橋大学が、これらに対抗する批判的知性として、鮮やかな切れ味を見せることがないでしょうか?

 (省略)学術に引きつけてまとめるなら、東大あたりの中でだけ通用する、田舎侍の了見では、世間やお天道様に照らしてまともな仕事になるか、はなはだ心もとない。

 さらにそれが、フンドシしめた高ジャッポのポンヤリのご機嫌取ることばかり考えて「全く問題ない」閣議決定などヨイショしていた日には、いったいどんなことになることか、知れたものではありません。

 で、トーダイ出身者は、それが正解と丸暗記してしまうとその方向にドッと押し寄せる、露骨な悪傾向が観察される。残念ですが、これがここ140年来の東京大学の事実にほかなりません。

 キャリア官僚の学歴第一主義の現状については、以下を参照ください。

東大卒キャリア官僚のマウンティングが壮絶すぎる「収入よりも学歴第一主義」
 民間では中卒でも起業で成功し莫大な資産を得る道があるが、公務員キャリアは大卒どころか、そのポジションの多くが東京大学卒で固められている。

「国家総合職試験の合格者には東大以外の大学卒もいるものの、その後の官庁訪問で東大フィルターにかけられる。一人を除き他全員が東大卒という代もあり、学閥は確実に存在しますね」(26歳・経済産業省)というように、彼らにとって国家総合職は選ばれし者のみが就く仕事であり、そのベースが学歴となる。
 
「国家総合職よりグローバル企業で働きたいと言った早稲田大学の女性に、『そもそもあなたは(東京大学ではないから)公務員になる選択肢が無いでしょ』と言った東京大学法学部卒のキャリアがいた」(26歳・民間企業勤務)

 日本の中枢は、いつか壊れるかもしれない。そんな気がするがいかに。

冒頭画像:霞ヶ関官庁街
引用:http://haradatakeo.com/wp/wp-content/uploads/2015/06/kasumigaseki.jpg

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