現代美術の価値基準は、欧米にあるのは間違いない
アート・芸術・美術、おなじようで、おなじではない
日本では、現代美術といえば訳がわからん、という認識が一般的と思われる。しかし、一度海外に目を向ければ、これが正反対となる。訳がわからんと思われた作品こそ、アートの文脈に新たな地平を開いたとして評価される。
しかし、ややこしいことに単なる訳のわからんだけの作品では、海外では歯牙にもかけてもらえない。そこにはアートの文脈(欧米基準の)という一定のルールを踏まえつつ、逸脱するという方法が必要といわれている。
欧米が考える現代美術のあり方は、テクニックや色彩などではなく、アイデアが重要視される。したがって、表層だけでなく理論的な裏打ちが必要となる。
日本の常識では、絵がうまい、色がきれいとか、表層の部分で判断しがちであるが、現代美術ではそんなことは、極端にいえばどーでもいいことである。
また、孤高の天才などは世界では通用しないとか。一般社会と隔絶してひとり作品づくりに没頭している、なんてーのは日本が好きな芸術家像であるが、それは残念ながら、海外ではなんの評価の対象にもならない。
現代美術の世界では、ひとりで作品をつくる行為を特に尊重していない。現在、評価の高い現代美術作家は、だいたい工房のようなシステムで作品を制作している。ダミアン・ハースト、村上隆などは多数の人員を抱えている。
60年代には、アンディ・ウォーホルが、ファクトリーを作っていたのは有名である。ウォーホルは、アイデアと営業を受け持ち、実制作はファクトリーが行っていた。正確には違うかもしれないが、やっていたことは近いはずである。
ウォーホルは言ってみればプロデューサーに近い存在だったと思われる、アイデアも当時のヒップな人脈から取り入れたりしていた。そのために常に飛び抜けてイケてる人たちとの交流が欠かせなかった。
このように現代美術は、自分で作品を作らなくても、とくに問題はない。評価の基準は、アイデアであり、それを具体化するコンセプトが評価の対象となっている、と言っても過言ではないだろう。
例えば、ジェフ・クーンズなどは、自分で作っていないのは、その作品を見れば一目瞭然である。技能者にモデルを作らせて、それを工場に発注して出来上がった、いわば発注芸術と言っても間違いはないと思われる。
そのような作品が、超高値で取引されるのが現代美術の世界である。アート、芸術、美術と、呼び方はいろいろあるが、けっしておなじ土壌にはないといえる。
ちなみに、現代美術を端的に他のアートと区別すると次のようになる。
現代美術=ハイアート…時代の最先端である美術(技術、思想など含む)
通俗美術=ローアート…個人の趣味的美術、商業美術、アウトサイダーアートなど。(アートの文脈に入らない美術全般といえる)
なお、上記した内容は、いくつかの書籍を読んだあとに、当方が勝手に解釈したものであり、必ずしも業界一般で共通するものではありません。
さらに付け加えると、工房で制作するシステムは、ルネサンス期の巨匠もおなじであり、日本でも安土・桃山や、江戸時代の狩野派などもそうであった。
作品:ダミアン・ハースト
現代美術の価値と、その背景にあるもの
現代美術の価値を決めるのは誰か、それは欧米の美術市場を形成するシステムにあると思われる。それを構成するのは、オークション、画廊、キュレーター、美術批評家など、そして作品を購入するお金持ちや美術館などの顧客である。
そこでの日本の影響力は皆無に等しいといわれる。なぜなら、世界で通用する日本人の現代美術家がどれだけいるかを考えれば、納得するほかはない。
したがって、日本の現代美術市場は、概ね欧米基準を移行したものである。ただし、日本特有の市場もある。それは日本でしか通用しない作品を取り扱う市場である。そこでは、日本画の大家の作品に数億という価格が付けられたりする。
しかし、それらの作品がひとたび海外に出れば二束三文なのは言うまでもない。
日本の美術市場では、現代美術などはとても小さく、海外では通用しない美術品を扱う市場の方が中心となっている。それはなぜか、日本特有の美術市場における既得権益が存在しているからに他ならないだろう。
銀座などの画廊にいけば、それがよく分かるはずである。現代美術の動向とは、かけ離れた美術作品が多く鎮座している。賃貸料のバカ高い銀座で、よく運営できるなと思うが、そこには日本ならではの仕掛けが潜んでいる。
日本の美術界の仕組みについて詳しくはないが、なんとなく想定できるのは談合のシステムである。1号あたり何万円という価格設定もそうだし、それを決めるのは誰かというのは、もっと不思議である。
一方、現代美術の価値基準とは、欧米の需要が決めていると言っても過言ではない。現代美術の需要とは、端的にいえば購入する顧客がいるかである。さらには、作品にどれだけ高い値を付けられるか、でもある。
現在、その中心はアメリカ、それもニューヨークといわれている。そこには、世界各国から現代美術の作品が集まっている。有力な画廊も多くあり、競争も激しいといわれる。そして、そこでは日夜の限りなく凌ぎ合いが続いている。
凌ぎ合いこそ、市場を活性化させる最良の戦略といえる。だからこそ、ニューヨークが現代美術の中心となっている。アメリカでは、美術品の購入に対し、税の控除が受けられる。たしかではないが、高層ビルなどの大規模建築では、一定の美術品の購入も法令で義務付けられているとか。
ようするにアメリカには、現代美術の市場があり、しかも大きいのが分かる。顧客が多くいれば、そこを目指して作品が集まり、それを取引する画廊や、評価する批評家なども群がり、さらに市場は活性化していく、という関係性にある。
したがって、現代美術の価値基準を決めているのは、欧米、なかでもアメリカがその中心であるのがよく分かる。なお、最近では中国やロシアの富豪も、現代美術市場で活発に取引しているといわれる。
アメリカの超富裕層は、その資産が想像を絶する規模といわれる。その一部を使って現代美術作品を多数購入しても、たいして懐も痛まない。それどころか、購入した美術作品が高騰して、資産をさらに膨らませてもいる。
現代美術は、超富裕層にとっては投資対象でもあるらしい。
現代美術=お金の価値ということができるに違いない。それは、一面しか見ていないかもしれないが、有力顧客の視点で見れば、そうであるのは間違いがない。
一方、作品の購入ができない一般市民は、超富裕層などの資産によって活性化する美術市場があるゆえに、面白い、興味深い作品を見ることができている。
なぜなら、現代美術作家に作品を作る機会を与えているのは、一般市民ではなく、顧客である超富裕層であるのは、言うまでもないからだ。
作品;ジェフ・クーンズ
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